早嶋です。
羽田から福岡に戻る飛行機の中、オリンピックにちなんだコラムがありました。ようろうたけしさんの作品です。内容は、競争相手を敵と表現するのはいかがなもんか?せめて相手と表現しよう!と言うもの。その中に興味深いコメントがありました。
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プロスポーツは別として、あまり勝負にこだわるのはどうかと思うが、小学校の運動会で順位をつけない傾向もよくない。速い子と遅い子、走るのが好きな子とイヤイヤ走る子がいていいのだ。ただし、いちばん速い子をちゃんと表彰したあとで、先生は教えなきゃいけない。後ろからトラが追いかけたとしたら、ビリの子が食われる。でも、ゴールでトラが待ち伏せしていたら1等の子が食われるよ、と。
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解剖学者さんらしいコメントです。生き物には多様性があるのが自然であって、勝ったほうが生き残るとは限りません。一昔と違い、一億層中流の世の中など既に神話となっています。二極化が益々進む中、みんなでゴールをした世代が大人になったとき、対応できるのでしょうか?
それから、1等になってもビリになっても、努力をした1等と努力をしない1等、努力をしたビリと努力をしないビリ。この違いもしっかりと教育して欲しいと感じます。義務教育の間で行う努力なんぞ微々たるもの。
結果がどうであれ継続的に何かに取組んでいった人が才能のある人を打ち負かせる世界。それが社会だと思います。
チャールズ・ダーウィンの言葉、「強いものが生き残るのではない、変化に対応したものだけが生き残る」。いちろうの言葉、「継続することを諦めたときが失敗」。
みんなでゴールするという表面的な教育を施しても何の役にも立たないのではないでしょうか。皆さんはどのように感じますか?