新規事業の旅164 脇毛とマーケティング

2025年3月24日 月曜日

早嶋です。2300文字です。

脇毛に思う。脇の下に生える毛だ。主に思春期以降にホルモンの影響で生え始める第二次性徴のひとつだそうだ。脇毛の意味は、摩擦から皮膚を守る。汗の拡散と蒸発を助ける。フェロモンを拡散する。という3つの機能がある。

1つ目の機能は、腕の動きによって脇の下が擦れるのを防ぐ役割だ。次の機能は、脇にある汗腺の機能を助けるのだ。毛があることで汗が広がりやすくなり蒸発しやすくなるのだ。そして、汗腺の中のアポクリン腺から出る汗が脇毛に付着することで、におい(フェロモン)を拡散しやすくする働きがあるという。ただし、近年、文化的な観点から脇毛の処理が習慣化されている。

人間の祖先は、全身が毛に覆われていた時代があった。しかし進化の過程で「体温調整の効率化」や「病気のリスクを下げる」などの理由から、だんだん体毛が薄くなったと考えられている。それでも「ワキ・陰部・頭・眉」などは比較的濃い毛が残っている。

脇にあるアポクリン腺は、思春期以降に発達する。体臭のもとになる成分を出すのだ。脇毛は、この臭い物質を毛に付着させ、拡散させる。性的な成熟や魅力のサインとして進化上の役割があるのだ。それなのに美意識が高い人は脇毛を剃っている。矛盾しているのだ。自分の魅力を高めたいと思う人が、本来持ち合わせている機能を敢えてシャットアウトしているからだ。

文化の進化が本能を上回ったのだ。匂いは不快、ムダ毛は不潔やだらしなさ。と捉える感覚を、一定の人間は社会的な価値観として受け入れてしまった。本能的な価値観を打ち負かしたのだ。脇毛を処理して、敢えて香水やデオドラントで「人工的ににおいをコントロール」するのだ。そして、「視覚的に清潔感を演出」している。その自然の美しさに対して、人工的な美しさを洗練されたと捉えたのだ。

別の観念もある。例えば都市部などに過度に人が密集するエリアでは、体臭(フェロモン)が「不快なひおい」と受け取られてしまったのだ。そのためフェロモンよりも、デオドラント、或いは人工的な香水の香りに軍配を置いたのだ。

そして人の密集は、本来の自分ではなく、周りからみられた自分という観念的な像を作り上げてしまい美意識が高い人達が作り上げた美意識を追い求める愚行を選んでしまったのだ。もちろん本来の姿を受け入れる傾向もあるが、マイノリティになってしまっている。

人間の進化が人間の機能を手放す瞬間は他にも観察できる。子孫を残す本来の機能を抑制する避妊。素顔の視覚的な情報を抑制する化粧。体温調整を度外視するファッション等だ。

人間が何百万年もかけてDNAに刻んできた機能を、たかが数十年から数百年の文化でかき消す人間。進化の叡智を信じるべきなのか、一過性の流行という薄っぺらい文化を大切にすべきか。どちらが正しいのかはあなた次第であるが、それらを確かめる研究はあまりない。おそらくイグノーベル賞等の対象になるので誰も本気にしないのであろう。

もちろん、体毛の多さとテストステロンの相関や、体毛の処理と自己肯定感や美意識の関連性、脱毛産業やマーケティング視点での調査は結構ある。しかし、脇毛の有無と収入や知性、正確や魅力度が高まるのか?などの問いに対する研究はみるけることができなかった。

間接的な情報としては、美容や身だしなみと収入の相関などはいくつか見つけることができた。ビジネスパーソンの調査などでは、身だしなみに気を使うほうが年収は高いとされるが、あくまで「外見の意識」や「社会適応」の一環としての評価なので脇毛の有無と直接的な要因では無いと思う。

欧米や日本の都市部においては、脇毛を処理することが「常識」とされる文化も根強くある。これに従うか否かが、就職や対人印象に影響を与える場合もあるかもしれない。しかしそれは「本能的な機能を活かすかどうか」という議論とは無関係で、むしろ文化的圧力やマーケティング戦略による影響が大きいのだと考えた。

そう、脇毛を剃るように史受けたのはマーケティングの力なのだ。「剃らないと恥ずかしい」と感じるようにしむけることで、一定の企業の実入りが高まる背景があったのだ。

1900年代初頭のアメリカでは、脇毛を処理する文化はほぼ存在していない。しかし、1915年にジレット社が女性用カミソリを販売開始した。それと同時に「ノースリーブを美しく着こなすには、脇をきれいに」という広告が始まったのだ。雑誌・ファッションと連動して、「脇毛=見せてはいけないもの」という認識を定着させたのだ。そうやって「毛を処理する必要がある」というニーズを先に作ったのだ。

マーケティングのコンセプトとして、恥や美や清潔を再定義させたのだ。毛があるのは自然なことを、「不潔」とか「恥ずかしい」と再解釈させたのだ。体臭は個性で本能であることを、匂いは「不快」で「迷惑だ」としたのだ。そして外見は内面の一部であることを、外見は社会的な評価の全てとしてしまった。結果、洗脳された人間は「処理していないと不安になる状態」に追い込まれ、脱毛・除毛商品が生活必需品として売れるようになったのだ。

そしてある時から、脱毛することを自由の象徴のように逆説的な売り方を始めた。自分のための脱毛。好きな自分でいるために。聴いたことがある心地よいフレーズを並べて、今は自由を売るイメージが強い。更にだ。最近では、ファッションモデルが個性の象徴として脇毛を処理させないことで自然体を表すマーケティングも観察できる。

脇毛を剃る文化は、結果的に企業が作り上げた概念なのだ。その概念を満たすために、消費者はこぞって、「無駄な毛を処理する」という「膨大な無駄な消費」を続けるようになったのだ。実に謎の行動を取り続ける人間であるのだ。



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