新規事業の旅 学びの意味

2025年2月12日 水曜日

早嶋です。3800文字です。

(デジタル化の弊害)
「答えだけを得る」ことは、デジタル化最大の弊害かもしれない。情報(或いは答えと思っているモノ)が瞬時に取得できることは便利だが、デジタルでは、それを得るためのプロセスに伴う思考や試行錯誤、葛藤や経験が省略される。既に、そのような経験を持つ人が活用するのは良いのかも知れないが、何もない人が活用すると、それは知識の深みや洞察の機会を経験させないことを意味するかもしれない。

アナログの学びは、答えを見つけるまでの過程に価値があった。問いを立て、試し、失敗しながら学びを積み重ねる中で、自らの考えを変え、視点を広げる機会があった。時間をかけて身につけた知識や技術は、単なる情報ではなく「経験知」となり、個人の成長や創造性を支えていた。

デジタル化によって、そうした「プロセスの省略」が加速した。例えば、検索エンジンを使えば、あらゆる問題の「答え」がすぐに出てくる。それを正しいと信じ、深く考えることなく受け入れると、自分なりの思考や視点を持つ機会を失う。さらに、アルゴリズムによってパーソナライズされた情報ばかりに触れると、異なる考え方の存在すら知らずにいるかも知れない。結果的に、思考の幅が狭まるのだ。

この結果、知識の表層的な蓄積は進むが、創造力や応用力、批判的思考力が育ちにくくなる。デジタル化が進めば、極端な話、すべての人が同じ答えにたどり着くため、社会全体の多様性や独自性が失われ、画一的な価値観に支配されるリスクが高まるかも知れないのだ。

デジタル化の恩恵を受けながらも、思考の過程を大切にするためには、「答えを得ること」よりも「問いを立てること」に重点を置く姿勢が重要だと言われる。瞬時に得られる答えに満足するのではなく、なぜそうなのか、他にどんな可能性があるのかと「問い続ける」ことで、知の深化を図るべきなのだ。デジタルが急速に進む昨今、その可能性ある弊害にどう向き合うかは、今後の教育や社会のあり方にも大きく関わるテーマであり、考え続ける価値がある問題だ。

(幼少期のアナログ的学び)
小学校や中学校で学ぶ科目の中で、実は最も大切なのは、先生の話(特に逸脱した話)や道徳、そして今では地域学習などの教養といった「思考の枠組み」を広げるものではないだろうか。

知識は単なる情報ではなく、それをどう捉え、どう活用するかによって価値が変わる。特に、先生の話や道徳の授業は、単なる暗記科目とは異なり、経験を通じた教訓や人生の指針を提供し、子どもたちが「ものの見方」を学ぶ場になる。これは部活動や地域での習い事も該当する。それぞれに経験を積んだ先生や指導者が、練習や試合の合間に、その当人の言葉で、当人が感じたことを言葉にして、子どもたちにつ伝える。子どもたちは、その度に見識を広げ、自分が体験したことを言語化するトレーニングにもなる。

その知識や視点はとても役にたつ。例えば、何か問題に直面して思考が停止したとき、人の話を聞いて自分の状況に当てはめることで、新たな視点を得られることがあるからだ。学習の真骨頂は、「知識の獲得」だけではない。得た知識を現在発生している問題に活用することで、自分の捉え方や考えを変え、いち早く行動して試すことにある。その意味で「知識の活用」によって思考のバージョンアップが起こり続けるのだ。

こうしたプロセスを考えると、教育の本質は「答えを教えること」ではなく、「考え方を育てること」にある。数学や理科、社会といった科目単体も重要だ。しかし、総じてそれらのエッセンスや知識が、何らかの問題解決のヒントやエッセンスになり、総合的に「思考力の向上」を実現するのだ。

更に、地域学習のような教養科目も重要だ。自分が暮らす社会や歴史、文化を知ることで、物事を多角的に見る力が育まれるのだ。何も無いと信じていた、或いは無意識に自問していたエリアの歴史を100年単位で遡ると、どのようなエリアにでも何らかの歴史や史実がある。この気付きは大きくて、何らかの価値を見出す際のヒントになる。結果的に、自分の価値観を相対化し、他者との違いを理解することにつながったりすると思うのだ。

知識を得ることは大切だ。それ自体が思考を深めるための栄養素のようなものだからだ。しかし、その知識をどう使うか、どう考えるかはもっと重要だ。そのために、学校教育においては「知識の伝達」に加えて、「思考の訓練」に力を入れるべきなのだ。むしろ「知識の伝達」はデジタルを活用して、その先の「思考の訓練」に時間と工数と予算をたっぷりつかい、試行錯誤を繰り返す事が学びの蓄積になる。

先生の話や様々な人の生きた話を聴くことが、従い重要になるのだ。様々な人の経験談を教材にすることで、多様な価値観を知ることができる。人の話を聴くことで、思考の枠組みを広げ、深く考える機会ができる。これを繰り返す過程で、自分の思考の整理のあり方を理解するのだ。自分の経験だけでは気が付かないことを知識から学ぶことで困難を乗り越えるヒントを得ることもある。思考がアップデートされることに気がつくだろう。更に、昨今の教育で重要視される地域学習は、自分がそもそも社会の一部であることを理解する大切なきっかけであり、社会とのつながりを意識する重要な経験なのだ。

(目的なき教育競争)
小学校から塾に通い、中学受験をする目的が「大学受験を楽にするため」だとすれば、その過程で本質的な学びの意義を見失う可能性が高い。学びが目的ではなく、単なる「競争に勝つためのツール」が学習と捉えると、その人の人生の後半は悲惨だ。幼い段階の早い時期に、エスカレーター式の入学チケットを入手することで、「ゴール」が見えてしまっていると勘違いを起こすと、腑抜けになり、「問い」を持つことすらしなくなるのだ。

対照的に、幼少期に、スポーツや芸術、探求活動に没頭することは、自分なりの信念や哲学を持つ経験になる。さらに、体と頭をリンクして行動することで、考えた問を検証する経験にもつながる。これは単なる知識の習得ではなく、自ら問いを立て、試行錯誤しながら答えを見出すプロセスそのものになる。社会に出て困難にぶち当たった際の、「生きる力」にもリンクすると思う。

しかし、現実を見渡すと、幼少期の習い事は、親のエゴであり、習わせている感覚を購入しているだけの部分もある。そして習い事そのものが、子どもにとっても「逃げ」の道具と化しているケースを観察する。

例えば、
– 受験勉強を理由に、自分の本当に考えなければならないことから目をそらす
– スポーツや部活を言い訳に、学問的な思考を避ける
– 大学進学は周りが行くものとし挑戦し、当人の目的はなくなんとなく時間を過ごす

こうした状態では、「学ぶ意欲」は生まれない。本来、学びとは「自分の問いを深める」ためのものであり、すでに与えられた正解をなぞるだけでは、知識は定着しても、思考は育たないのだ。10代後半に、様々な知識に触れ、様々な人の経験に触れ、その都度自分で考え試し行動する。この繰り返しの中で、自分の考えやあり方を実験する時間を過ごした場合は別だが。目的が大学に楽に行くことと誤った定義を親に刷り込まれてしまうと、運良くエスカレーターに乗っても、時間を持て余し単に消費する生活が始まり、思考の糧や生きるチカラのプラスにはならないのだ。

学びは、自分の人生を豊かにする。知識や経験があることで、ものの見方や捉え方が変わるからだ。学ぶことで何かが楽しくなり、人生が豊かになると思うのだ。

その意味で学びに必要なことは、
– 問いを持つこと、自分がなぜ学ぶのかを考え、問いを立てる習慣を持つこと。
– 経験と結びつけること、知識だけでなく、スポーツや芸術、仕事を通じて考えを深めること。
– 行動し、検証すること、単に知るだけでなく、それを実践し、試行錯誤を重ねること。
– 目的意識を持つこと、学びの目的が「大学に行くため」ではなく、「より良く生きるため」と捉えること。

かも知れない。学びの目的は、受験のためでも、良い会社に入ることでもない。自分の世界観を広げ、よりよく生きるための探求だ。だから、学校教育だけでなく、スポーツや芸術、あるいは社会との関わりを通じて、自分なりの哲学を持つ意味を考える時間が必要になると思うのだ。

もし、受験や塾を通じて得たものが「学ぶ楽しさ」ではなく「学ぶことの義務感」だけであれば、その先の人生で学び続けることは難しい。自ら問いを立て、その答えを模索する経験があれば、学びは一生のものになる。昭和のオジサン、オバサンたちの多くは、自分のピークを大卒か、大学入学した時期だと思っている。だから過度に学歴を気にして、30になっても40になっても過去の成功体験を全てとして生きてしまう。未来は変化している。従い、学びながら自分のアップデートすることで、よりよい楽しさが生まれている。なんて考えることをしないのだ。学びは義務ではない、自由なのだ。

大切なのは「どう学ぶか」よりも、「なぜ学ぶのか」。この問いを持てるかどうかが、受験や学校教育をただの通過点にするか、人生の糧にするかの分かれ道なのではないだろうか。

(過去の記事)
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