早嶋です。約12,400字。
高級時計など、ブランドを確立し事業として成功するプロセスにおいて、共通点を整理した。もちろん、実際は、後付も多いだろうが知名度ゼロからブランドを立ち上げ、1機100万円以上する腕時計を販売する企業の取組には、いくつかの共通項も見いだせる。最後には、我らPDCHのまとめも掲載した。
●ブランドコンセプトとビジョン
ブランドコンセプトとビジョンの設定は、マーケティング活動におけるポジショニングの確立に近い。自分たちの時計は何を表現するか。時計ブランドの核となるビジョンや考え方、商品や販促活動の軸になる取組をある程度明確にすることだ。通常、商品や事業のポジションとターゲットはある程度一緒に議論することが多い。ただ、余りにも飛び抜けたビジョンやコンセプトである場合は、今の顧客層を議論しても良い発想は生まれない。その場合は、将来顧客からのフォローを信じて自社哲学にフォーカスして取り組む。顧客は後からついて来るという発想だ。コンセプトは初期の段階で明確に議論しなければならないわけでは無い。商品を創る過程や販売を繰り返す中で一定の共通性や感触をもとに、徐々に明文化する企業やブランドもあるからだ。
実際の高級時計メーカーの事例をいくつか挙げてみる。どのようにブランドコンセプトやビジョンを定義しているか、議論する際の参考になるだろう。
まずは、ロレックス(Rolex)だ。ブランドコンセプトは、「信頼性と高精度」、ビジョンは「耐久性と技術革新を両立させ、エリート層に向けた時計を提供する」ことを掲げていると思う。ロレックスは、耐久性のある精密な時計を求める探検家やスポーツ選手から、ビジネスマン、富裕層まで幅広い層に支持されている。初期から防水性のある「オイスターケース」を開発し、世界初の自動巻き機構「パーペチュアル」を搭載するなど、技術革新を進めてきている。また、エベレスト登山や深海探検などの過酷な環境での使用実績を積み重ね、時計の耐久性と信頼性をアピールしている。
次は、パテック・フィリップ(Patek Philippe)だ。パテックのブランドコンセプトは、「伝統と卓越した職人技」で、ビジョンは、「次世代に受け継がれる時計を作る」だろう。パテックは、時計製造において職人技の極致を追求し、複雑な機構や美しい仕上げを特徴としている。彼らのビジョンは、ただ時計を売るのではなく、「あなたの時計は次世代に受け継がれるべきもの」という哲学に基づいている。これは、顧客が購入した時計が価値を増し、家族の遺産として残るというメッセージを発信している。非常に高いステータスを持つ時計メーカーとして位置付けられている。
オーデマ・ピゲ (Audemars Piguet)。ブランドコンセプトは、「芸術性と革新の融合」でビジョンは、「伝統を守りつつ、革新を続けることで、新しい時計デザインを生み出す」だ。オーデマ・ピゲは、特に1972年に発表された「ロイヤルオーク」で有名だ。このモデルは、従来のドレスウォッチとは異なり、ステンレススチール製のスポーツウォッチでありながら高級感を持つという革新的なデザインを採用した。伝統的な時計製造技術を守りながらも、新しいスタイルや素材を取り入れることにより、時計業界におけるパイオニア的な役割を果たしてきた。
リシャール・ミル(Richard Mille)。ブランドコンセプトは、「フォーミュラ1のような精密工学」であり、ビジョンは「次世代の素材とテクノロジーを駆使し、究極の高性能時計を作る」だ。リシャール・ミルは、2001年に創業された比較的新しいブランドで、航空宇宙技術やフォーミュラ1に使われる素材を取り入れ、超軽量で高耐久な時計を作り上げている。彼のビジョンは、「フォーミュラ1のような精密さとスピードを時計製造に取り込む」というもの。リシャール・ミルの時計は極めて軽量で、衝撃に強く、アスリートたちが過酷な競技の中で装着しても問題なく動作することが大きな特徴になっている。
ブレゲ (Breguet)。ブレゲのブランドコンセプトは、「発明家精神と歴史的遺産」でビジョンは「時計製造の革新を続け、伝統を尊重する」だ。ご存知の通りブレゲは、現代の高級時計に多大な影響を与えたブランドで、トゥールビヨンや永久カレンダーなどの時計機構を発明したアブラアン・ルイ・ブレゲによって設立された。ブランドのビジョンは、伝統を尊重しつつ、新しい技術革新を追求し続けることにある。ブレゲは、過去の偉大な発明に敬意を払いながら、現代の時計製造技術を進化させている。
最後は、ジャガー・ルクルト (Jaeger-LeCoultre)。ブランドコンセプトは、「エレガンスと多機能性の融合」でビジョンは「実用的かつ美しい時計を作り、細部にまでこだわる」だ。ジャガー・ルクルトは、複雑な機能を備えたエレガントな時計で知られ、特にリバーシブルデザインの「レベルソ」は、ドレスウォッチとしての優雅さと実用性を兼ね備えたモデルとして広く認知されている。彼らのビジョンは、エレガンスを追求しつつ、時計が持つ機能性を最大限に引き出すことにある。
どのブランドも、強固なブランドコンセプトと明確なビジョンを持ち、顧客に対して一貫したメッセージを送り続けている。技術革新、職人技、伝統、革新的なデザイン、素材など、ブランドの特徴を明確に打ち出し、ターゲット顧客に対して信頼と価値を提供することが成功の鍵となるのだ。
●特別な機構や技術の導入
高級時計において、技術的な差別化は当たり前だ。初期段階から何か特別な要素を持たせることで、市場のエントリーを可能にする。技術畑のブランドは、その技術そのものが目玉商品になることもあるし、その後のブランド拡大に大きな影響を与える。高級時計ブランドにおいて技術的な差別化を図る際は2つのアプローチがある。垂直統合と水平連携の2つだ。それぞれのメリットや事例を見ていこう。
垂直統合とは、製造工程や技術開発のすべてを自社で行うアプローチだ。ブランドが自前で材料調達から組み立て、ムーブメントの開発、仕上げまでを行うことで、品質管理や技術的な革新を一貫して行うことが可能になる。メリットは、品質管理が徹底されること、独自技術が蓄積されること、そしてブランドの独自性を確保できることがある。
工程の上流から下流までを自社で管理するため細部まで高い品質を維持できる。更に、他社に依存せず、自社独自の技術開発により、競争力を高めることもできる。結果的に、長期に渡りブランドアイデンティティの強化にもつながるのだ。加えて、他社製ムーブメントや部品に依存しないため、製品に独自の技術やデザインを反映しやすくなるのもメリットだ。
一方、デメリットだ。コスト高になること、スケールメリットの失敗の可能性、そして柔軟性が低下する場合があることだ。垂直統合では、製品の製造工程をすべて自社で行うため、設備投資、技術開発、製造にかかる初期コストが非常に高くなる。また、全てのプロセスを自社で管理するためには、各工程におけるリスク(例えば、技術開発の失敗、供給不足、製造ラインのトラブル)が直接的に会社に影響を及ぼすこともある。
垂直統合にこだわると、外部からの部品やムーブメントの調達を検討しないので、規模の経済を活用したコストカットができにくくなる。すでに確立した大規模のブランドは別だが、小規模ウォッチメーカーだと、外部供給に依存せずに自社で全てを製造するには限界があり、コスト高になる傾向があるのだ。
全工程を自社で行うことは、市場の変化や新技術の登場に対して柔軟に対応しにくい場合がある。例えば、ある工程で技術革新が外部で進んでいても、既に自社の設備や技術に大きな投資をしているため、その新技術にすぐに切り替えることが難しい状況が発生するなどだ。
ジャガー・ルクルトは自社で1,000種類以上のムーブメントを開発してきた歴史を持ち、内部でほぼすべての部品を製造している。Reverso(レベルソ)のような独自のデザインや高機能な複雑機構も、自社内で生み出されている。こうした垂直統合のアプローチにより、他社とは一線を画す時計を作り出し、ブランドの差別化を実現している。
パテック・フィリップは、自社で複雑機構を開発・製造する能力に優れ、トゥールビヨンや永久カレンダー、クロノグラフなどのハイエンドな技術を自社で供給している。パテックの場合、時計のすべてがパテック製であること事態も価値を高める要因と理解されている。
次に、水平連携を考える。時計ブランドが特定の工程や技術の開発を他社と協力して行うアプローチで、特定の分野で専門的な技術や知識を持つ企業と提携することで、製品の品質や性能を高めることができるというメリットがある。他にもコスト削減と効率化、専門技術の積極採用、スピードを味方にした市場投入などもメリットだ。
当然にデメリットも多数ある。まずは品質管理が難しくなることだ。特に高級時計では、細部に至るまでの品質がブランドの信頼性を支える要素となる。外部パートナーの管理が適切でない場合、品質のばらつきや不具合が発生する可能性につながるのだ。競争力が低下することも考えられる。基本的に、他社と同じムーブメントや部品を使うため、競合他社との差別化が難しくなる問題は理解できるだろう。もちろん、実際は相当のマニアでなければ水平連携先の取組を知らないので杞憂ということも言えるだろう。敢えてもう一つ言えるとしたらパートナーへの依存だ。パートナーのビジネス状況や供給状況が悪化した場合、その影響を受けやすいというデメリットだ。
リシャール・ミルはムーブメントの製造を自社開発だけでなく、複雑な機構や精密なムーブメントで知られるヴォーシェマニュファクチュールと提携している。この提携により、リシャール・ミルはムーブメント開発の負担を軽減し、他社との協力を通じて超軽量で高性能な時計を作り出している。
ブライトリングは、スイスの時計産業で一般的なETAムーブメントを採用している。ETAはスウォッチグループが所有するムーブメント製造企業で、ブライトリングは自社製造とETAムーブメントの両方を活用することで、ブランドの多様なニーズに対応しながらも高品質を維持している。
タグ・ホイヤーは、日本のセイコーと技術提携し、革新的なクォーツムーブメントを採用することで、精度とコスト効率の高い時計を市場に投入している。クォーツ技術ではセイコーがリーダー的存在であり、水平連携を通じて新しい市場を開拓しているのだ。
垂直統合も水平連携も一長一短があり、ブランド規模や戦略に応じて選択することが重要だ。最初は水平連携を行い、後に垂直統合へと移行するブランドも存在しているように、どのような方法を取るかは、ブランドの成長戦略や市場のニーズによって異なるのだ。
●有名人やインフルエンサーとの協力
無名ブランドが注目を得るために、ブランドアンバサダーや他のブランドとのコラボレーションを行なう事がある。特に、時計業界では、成功したビジネスパーソンやスポーツ選手、アーティストなどが時計を愛用していることが一種のステータスとなり、そのブランドの認知が高まるきっかけになる。
ブランドが小さく成長していない初期は、販売できる数に限りがある。そのため一定の限定モデルのような取扱ができる。そこに対して希少性をアピールし、時計コレクターや富裕層にリーチしてブランドの魅力を伝えていく。もし彼らが魅力を理解いただければ、強力なパートナーとなりブランドの良さを世界に知らしめてくれる。伝統的には展示会や時計グランプリにエントリーして自身のブランドをアプールするのだ。その中で、影響力のある組織や個人の目に止まれば次のステップに進める確率も高くなる。
ただし有名人やインフルエンサーの起用においては大きなリスクが潜んでいる。もし、彼ら彼女らがブランドイメージに反する行動を取った場合、ブランドの評判に大きなダメージを与えるのだ。更に、規模が小さいブランドは経済的な余裕が無く、理想の著名人をリストアップ出来たとしても、コンタクトすることすら難しいだろう。そこで、いくつかのリスクと策を整理してみた。
まずはリスク管理についてだ。著名人やインフルエンサーを選定する際は、知名度だけでリストアップしてはいけない。その人物の価値観やライフスタイルが本当に自分たちのブランドイメージと合致しているかを慎重に見極めることがポイントだ。長期間にわたって信頼でき、ブランドの理念やメッセージに実際に共感してくれる人がいれば、リスクそのものを減らす確率が高まる。パテック・フィリップは、製品の「次世代に受け継がれる」というテーマに合致するような、歴史や伝統を重んじる人物をブランドアンバサダーに選ぶことで、イメージの一貫性を構築している。
契約の期間等もポイントがある。長期的なアンバサダー契約ではなく、短期的なコラボレーションやプロジェクトベースでの協力を行うことで、リスクを分散できるからだ。万が一問題が発生した際にも、関係を迅速に解消することが可能になる。もちろん、短期間であっても先に示した人物の選定は慎重に行なうべきだ。リシャール・ミルは一部のアスリートや著名人とのコラボレーションを行い、限定モデルをプロモーションしている。その契約は、長期的な期間ではなくプロジェクトごとに関わる形態を取り、リスクをコントロールしていると推察できる。
ブランドが強い立場にある場合は、アンバサダー等との契約の際に契約条件をつけるのもアイデアだ。契約期間中に、ブランドのイメージに著しく反する行動を取った場合、契約を解除できる条件を設定するなどだ。仮にトラブルが発生した際にも迅速に対応することができるのだ。実際、一部のラグジュアリーブランドは、著名人との契約に「道徳条項」を含めている。イメージを毀損する行動があった場合、契約解除ができる仕組みを備えているのだ。
では、小さなブランドやスタートアップのブランドが取るべき取組について考えて見よう。著名人やインフルエンサーへのリーチ事態、経済的なコストを伴う。小さなブランドでも独自におこなうことが可能な取組だ。まずは一定のコミュニティやニッチターゲットにアプローチすることだ。高級時計の世界は、有名人よりもむしろ特定のコミュニティで発信力がある方々のほうが価値を正確に伝えてくれる可能性がある。インスタグラムや他のSNSには、特定のグループコミュニティが発達している。そのようなコミュニティの中で認知を得ることを考えるのだ。
もちろん自社のサイトや露出する媒体の中でブランドの歴史や製品の開発背景、製造工程などに焦点をあててストーリテリングすることも大切だ。高級ブランドは、商品のみならず、その商品に関連される全てにおいて価値を体現することになる。ストーリテリングはブランドの信頼性を高め、消費者の共感を呼ぶ強力な手段になるのだ。特に、小規模なブランドは、創業者の理念や職人技のこだわりを打ち出すことで、他の大手ブランドとは異なる独自性をアピールすることができる。ブランドが大きくなると、様々な利害関係の中で一定の利益を追求する必要がでてくるので、小規模なブランドのように徹底した拘りができなくなる場合があるので、余り語らなくなるのも事実だ。小さいブランドしかできない取組を将来のオーナーに向けて語りかけるのだ。ドイツの時計ブランド「ノモス・グラスヒュッテ」は、伝統的な時計製造の技術と現代的なデザインを融合させた時計作りを強調し、職人技を前面に出したストーリーテリングでブランドの知名度を上げている。
初期のブランドは、インフルエンサーや著名人よりも実際の顧客の声が大切な評価になる。特に高級時計の場合、製品の品質やサービスに満足した顧客は積極的にブランドを推薦することを行なう。これは、そのブランドの信頼を高める取組にもなる。このようにリアル、SNS等を通じて実際の顧客から発信された声を活用することも効果的だ。ただし、ここに対して明らかにペイドで著名な方々に対して発信を急増すると、やらせ感がでてしまう。数万円の時計であれば問題ないだろう。ファッションのようにそもそも何個も買い替えスイッチするものだからだ。しかし100万円以上の単価で販売をする場合は、一定の塩梅があるのだと思う。
大手ブランドは限定と言っても1,000個とか2,000個の世界だ。しかし、小さなブランドは25個とか50個作って販売するのも大変だ。そこを逆手に取り大手が出来ないような少量生産であることを協調して限定モデルとしてアピールするのだ。全ての時計に対しては、ナンバリングがされてあり、保証書にはブランドオーナーや創業者のサインが記されている。このような取組は顧客に対して特別感を与え、ブランドに対する強いロイヤルティを生み出すきっかけになる。オリス (Oris)は、限定生産のモデルを発売することで、時計コレクターや愛好家の間で評価を得ている。特に環境保護活動とコラボした特別モデルは注目されるきっかけを作った。
技術者や職人にフォーカスするのも一つの手法だ。通常、ブランドの世界は完成された商品のみが露出する。しかし、実際のものづくりの世界は熟練した技術者が幾重にも協力して完成される。その取組やその職人や技術者たちに光をあてて、ブランドを発信していくのだ。大手と異なり大量生産では無い場合は、かならず少量生産で昔と変わらないウォッチメイキングの手法を取り入れている。その技そのものが、現代人に取ってとても希少に映るのだ。セイコーグループではあるが、セイコー プレザージュは、伝統的な日本の職人技とのコラボレーションと、その技術や美しさを強調している。これは、特に海外において高い評価を得るきっかけを構築した。
著名人やインフルエンサーとの協力は、ブランドの認知度を高めるための強力な取組だが、リスクも伴う。これらのリスクを軽減するためには、適切な選定と契約条件の整備が必要だ。また、小さなブランドが無理に有名人に依存せず、他の方法でブランドを強化することも十分可能だ。コミュニティをターゲットにした取組や、ストーリーテリング、口コミを活用することで、ブランドの知名度を徐々に築き上げることがポイントになるのだ。
●細部への徹底的なこだわりと品質
高級時計は価格に見合った品質は言うまでもない。素材、製造工程、仕上げ、耐久性や実用性。全ての面において当然にクリアすることが大切だ。クオーツの時計に宝飾品を埋め込んだだけの時計は高級時計としての価値はつきにくく、ジュエリーウォッチとして、別のカテゴリに属される。時計は、やはり機械式であるか、グランドセイコーのように独自の機構等を組み込み事が前提にある。具体的な部品ごとのこだわりと実用的な機能について説明しよう。
まずは、ムーブメントだ。ムーブメントは時計の心臓部で、最も重要な要素だ。高級時計メーカーは、ムーブメントの設計・仕上げに膨大な時間と労力をかけ、視覚的にも機能的にも最高レベルの仕上がりを追求する。ムーブメントの各パーツには「ジュネーブストライプ」「ペルラージュ(丸形研磨)」「ポリッシング」といった伝統的な装飾が施される。これらの装飾はムーブメントの美観を高め、コレクターにとっての魅力となる(ジュネーブストライプはムーブメントのプレートやブリッジに斜めに彫られるストライプ模様だ。ペルラージュは円形の研磨模様で、ムーブメントの仕上げや装飾に用いられる)。
続いてローターだ。自動巻きムーブメントには、ローターが時計の動力源を巻き上げる役割を果たす。高級時計では、ローターの素材や装飾に特別なこだわりがある。まずは素材だ。ローターに18Kゴールドやプラチナを使用する。これらの貴金属は比重が重く、同じ体積(大きさ)でより効率的にゼンマイを巻き上げる機能的な意味もあるので、時計そのものの性能向上にも寄与するのだ。そしてローター自体にも装飾が施され、美観を高める要素となる。オープンワーク(透かし彫り)にすることで、ムーブメントの内部構造が見えるデザインなどもあり、これもオーナーにとっての楽しみの一つとなる。
ブリッジやプレートも忘れてはいけない。これらはムーブメント内のパーツを支える構造で、精密な仕上げと耐久性が求められる。高級時計では、ブリッジやプレートのエッジ部分を手作業で斜めにカット(アングラージュ)して、滑らかな曲線美を持たせることがある。これは、精密な職人技が求められる工程で、特にスイスの時計ブランドにおいては伝統的な技術として知られる。もちろん素材も気を使う。高品質なブラス(真鍮)やメッキ処理された金属が使われ、強度と美しさを両立させるのだ。
テンプとヒゲゼンマイは見ていて飽きない。テンプは時計の「心臓部」と呼ばれ、ムーブメントの精度に大きく関与する。特にヒゲゼンマイは、時計の正確な動作を維持するための極めて重要な部品だ。ヒゲゼンマイには、伝統的なニバロックスという特殊合金が使われている。最近ではさらに進化した素材でシリコンなどの採用もある。シリコンは軽量で磁気の影響を受けにくく、時計の精度を向上させた。高級時計では、テンプの振動数を細かく調整できる機構が取り入れられ、職人が何度も調整することで極めて高い精度を実現する。たとえば、クロノメーター認定を受けた時計は非常に厳しい精度基準をクリアしているのだ。
機械式時計のムーブメントは、軸受け部分にルビーやサファイアなどの硬い宝石を使用する。これにより、摩擦が減少し、ムーブメントの耐久性と精度が向上する。ムーブメント内の要所にルビーが精密に配置され、耐久性を保ちながら摩耗を防ぐ役割を果たす。石の数が増えるほど、時計のムーブメントは複雑で高性能であることが示される傾向にある。何よりも、時計の裏側を見ると、ルビーの色と他の貴金属の色がマリアージュしてなんとも言えない美しさを演出する。これも高級時計のこだわりとして重要視されるのだ。
時計の美的な要素にもつながる針とインデックスにも注目して欲しい。時間を表示する最も重要な機能に加えて様々な工夫がなされている。高級時計には青焼きの針がある。ブルースチールと呼ばれる技術で、青く焼き上げたスチール針や、金製の針が使われることが多い。この技術は美しいだけでなく、針が錆びにくくなるという実用的な利点もあるのだ。時間を表示するインデックスは、手作業でカットされた金属や、ダイヤモンドをあしらったモデルも存在する。
もちろんダイアル(文字盤)のこだわりも枚挙に暇がない。時計の視認性を高める役割に加えて審美的な要素を演出する重要なパーツだ。文字盤は時計の「顔」でもあり、時計そのものの第一印象を与えると言っても過言ではない。いくつか代表的なこだわりとポイントを見てみよう。
まずはエナメル文字盤だ。伝統的な製造技術で、極めて高い技術が必要だ。エナメル(ガラス粉末を焼き上げたもの)を使って作る文字盤は、美しさと耐久性が特徴だ。特に、グラン・フー技法は素晴らしい。幾重にも渡りエナメルを焼き重ね、非常に高温で焼き上げることで、鮮やかで光沢のある文字盤が完成する。この技法を用いると、長期間にわたり色あせることがなく、文字盤が時間経過とともに美しい光沢を保つのだ。ブレゲやパテック・フィリップでは、グラン・フー技法によるエナメル文字盤が使用されており、その独特の美しさが高級感を引き立てている。
ギョーシエ堀の文字盤も得も言われぬ美しさがある。極めて細かい幾何学的な模様を金属表面に手作業または機械で彫刻する技術で、文字盤に施されたギョーシェ彫りは、光の角度によって反射が変わり、独特の輝きを放つのだ。高級時計では、伝統的な「ギョーシェ・エンジン」という機械を使い手作業で彫ることが多く、職人技の集大成となる。均一で精緻な模様が時計の顔として美しいだけでなく、反射の仕方によって時間の読み取りも容易になるのだ。
ラッカー仕上げの文字盤は、何層にもわたりラッカーを塗り重ね、光沢感のある滑らかな表面を作り出す技法だ。高級感とともに、色の深みが増し、鮮やかさを引き立てる。高級時計では、複数層に渡りラッカーを塗り、その後丁寧に研磨することで、極めて光沢のある美しい文字盤が完成する。黒やブルーの文字盤は、光の反射により色が変わり、非常に高級感を感じられる。カルティエのタンクシリーズは、ラッカーを使用した文字盤が採用され、クラシックかつ現代的なデザインが評価されている。
文字盤の素材に直接サンドブラストやパテ技法(粉末やペースト状の素材を塗り重ねる技術)を施すことで、特殊なテクスチャーや質感を持たせる方法もある。サンドブラスト仕上げは、粗い粒子を文字盤に吹きかけて微細な凹凸を作ることで、マットでありながら視認性の高い表面が作られる。光の反射を抑えるため、屋外や強い光の下でも視認性が高く、実用的な文字盤装飾だ。パネライやIWCなどのスポーツウォッチでは、サンドブラスト仕上げの文字盤が耐久性と視認性を両立させている。パテ技法は、伝統的な粉末状の素材を何度も塗り重ねてから焼き付けることで、文字盤に奥行きと温かみのある仕上がりを与える。この文字盤も強い光の下でも表面の微細な凹凸が光を吸収して視認性を高めるとともにラッカーでは表現できない美しさを演出する。
ケースは、時計本体の機構を収めるだけではなく、外部の衝撃や水分から保護し、時計のデザインや機能性を決定する重要な要素になる。高級時計のケースには18Kゴールドやプラチナ、チタン、セラミックなど、耐久性と美観を兼ね備えた素材が使用される。特に手首へのフィット感や重量バランスが重視され、ケースの厚みや形状にも細心の注意が払われてデザインされる。もちろんそのケースの仕上げには、ポリッシュやサテン仕上げなどの表面加工にこだわり、ケースの美しさと耐久性を高める。また、限られたブランドでは、ケースに手彫りの装飾を施すこともある。
高級機械式時計は、ムーブメントから針、ケースに至るまで、細部にわたる職人技とこだわりが随所に詰まっている。全てのこだわりを一つの時計に盛り込むことは不可能なので、素材の選定や仕上げ技法、そして美的価値と機能性のバランスを追求するなかで、ブランドがどのようなこだわりを選定するかが時計のアイデンティティを生み出すのだ。時計が単なる時間を示す道具以上の価値になる所以もここらへんの拘りに凝縮されている。
●ターゲットと明確なマーケティング・コンセプト
ブランド・コンセプトとセットになるであろうが、一定の価値を万人に受け入れられるというのは眉唾ものだと思う。特定の顧客に対して、特定の価値を発信してこそ本当の価値が生まれるという考えもある。そのため、ブランドは、どのような層に対して時計を提供したいかを明確に特定して、その顧客にあったコミュニケーションやプロダクションを提供するのだ。
このあたりの議論に対しては、グランドセイコーのブランディングもしくは、その関連記事を参考にした欲しい。
●タイミングと運
1機、100万円以上の時計だ。すでにブランドとして確立しており、過去から多くの時計愛好家から親しまれているブランドはすでに価値がある。しかし、立ち上げたばかりのブランドが、今回のブログで触れた取組を頑張ったら必ず成功するというものでもない。タイミングも運も必要だ。ただ、時計業界では、革新的なデザインや機能が偶然にも市場で求められている時期に合致すると、爆発的な成功を収めることが多々ある。デジタル技術が急速に発展していた時期に、アナログな高級時計が逆にプレミアムなものと認識され、需要が高まったことは記憶に新しい出来事だろう。
何事もそうだが、理屈を理屈として理解しても価値にならない。実際に行動して、取り組んで、形を作ってみてはじめて、何かを手に入れることができるのだ。
PDCHの歩み
■ブランドコンセプト
「毎日使えるエレガントなドレスウォッチ」
■ビジョン
「伝統的なウォッチメイキングで機械式時計の芸術性と実用性を追求する」
■PDCHは、リシャール・ミルと同様に、ヴォーシェマニュファクチュールと提携している。1号モデルの紺碧(KONPEKI)も2号モデルの鏡餅(KAGAMIMOCHI)もヴォーシェからムーブメント供給を受けている。もちろん毎日つけるドレスウォッチを体現するため、マイクロローターを採用してより薄く、より軽く、そして正確な時間を提供することを実現。更に、ムーブメントの細かい仕上げやデザインはPDCHの意向を強く反映した特別なものだ。
■インフルエンサー
時計クラブの認知、オークションの活用、時計業界の伝統的な方々との協業。業界のジャーナリストの中でも特に時計愛と情熱にあふれる方々との定期的な情報交換。ネットワーキングや露出に対しても試行錯誤しながらブランドコミュニケーションの在り方を日々模索している。1号モデルの紺碧は、ヴォーシェマニュファクチュールのチームと共に、最高のスタートを切った。2号モデルの鏡餅は、引き続きヴォーシェアのムーブメントをベースに、ケースはラ・ファブリック・デュタン(ルイ・ヴィトングループ)、ダイアルはメタレムで御存知の通り多くの高級ブランドにダイアルを供給している。そして、時計の監修は、エマニュエル・ブーシェ(Emmanuel Bouchet)が行なうなど、ドリームチームとの取組を実現している。
■顧客
理念を理解していただける方。
■ストーリーテリング
時計以外のベルト、箱などスイスと福岡のクラフトマンシップの融合を皮切りに、ブランドのストーリーテリングを開始。2号モデルの鏡餅は、再びスイスにフォーカスをして、フルリエの近隣にすむ時計職人とのコラボレーションで伝統的なウォッチメイキングと超真面目なものづくりの印象を語りかけている。何よりも、時計業界にいなかった日本、イギリス、ドイツの3人が趣味が講じて作った時計ブランドだ。マニアがマニアらしくこだわった時計と聞くと、それだけでも実機を見たくなるだろう。