新規事業の旅115 足るを知る

2024年6月14日 金曜日

早嶋です。

龍安寺の知足のつくばいが好きだ。「吾唯足知」自分は満ち足りていることを知っている。満足を知る人は、貧しくても幸せで、逆に知らない人は金持ちであれ不幸だという考えを示す。中国の古典思想家で老子が語ったとされる(道徳経の33章)。現状に満足することの重要性を説き、今の充足した世界においてイノベーションを起こす際に、再考すべき概念だと思う。

足ることを知らなければ、常に満足することが出来ない。「足るを知る」の言葉の背後に、欲望を抑え、現状に満足することで幸福になるという思想がある。裏返すと、現状に満足せず、常にもっと多くを求める人は、永遠に満足を得ることができない。結果、幸せを感じることが難しいのだ。

老子は、欲望に支配されず、現在の自分の状況に感謝し、満足することが真の幸福への道だと考えた。この教えは、現在にこそ有用で、過剰な消費や競争社会の中での生き方に対する指針となると思う。

一方で、こんなことを思った。「足るを知る」を意図的に行った場合、結果、それは自分の欲望を抑えるという概念にならないかだ。自分の欲を隠し、自分は幸せで満足しているのだと、自分に嘘をつく。それで充足されるのか。考えるに、「欲望を抑える」という表現が、そもそもフィットしない。欲望を無理に抑え込むことは不自然だ。老子の思想の重要な点は、欲望を抑圧することではなく、欲望そのものの性質を理解し、自然にそれを減少させることと解く。

「足るを知る」は、欲望を完全に無くすことを求めない。むしろ、欲望の対象を適切に認識し、それに対する執着を減らすことで、内なる平和と満足感を得ることを目指すのだ。

例えば、近年の心理学にあるような心の在り方にも通ずるものがある。「自己認識」自分の欲望や執着を客観的に理解することを説く。「現状の受け入れ」現在の状態や持っているものに感謝し、満足することを説く。「自然との調和」自然の一部として自分を認識し、自然な欲求を持つことを素晴らしいと説く。欲望を無理に抑えこみ隠さなくて良いのだ。自然に理解し、受け入れ、執着を減らすことが大切だ。

独立起業して20年。確かにイメージできる経験が複数ある。まずはファッションだ。起業したての頃は、ただただ自分を良く見せたくて、仕立ての良い生地をオーダーし、あつらえのスーツで着飾った。徐々に機能的なファッションにフォーカスするようになり、同じジャケット、同じパンツ、同じシャツを着まわすようになった。他人と比較することもなく、仕事着として相手に不快感を与えず、何を着たいかを考えなくて良い状況を作りたかった。今は、ファッションへの執着がない。

次に車だ。当初は、移動手段として考えた。タクシーや公共機関の活用が最も合理的に感じた。子供が生まれた時、車が無いと不便だと思った。家族のタイミングで移動することが必要になったのだ。そこで車の購買を検討した。移動手段とタイミングを満たす道具として考え中古で十分、予算も200万もあればよいと考えた。いざ車を探し始めると、新しい情報がどんどんアップデートされ、予算は300万、400万、500万と上がっていく。面白いのは、購買価格を自分の都合に合わせて合理的だと思い込んだことだ。

当時、レクサスのISを中古で購入した。満足だった。二人目の子供が生まれるタイミングで、子供の自転車やベビーカーを運ぶ機会と量が増え、NXを新車で買い替えた。そして次はRX。オプションもモリモリつけた。そこで満足するかと思えば、面白い。満たされたのは買った瞬間だけだった。

実際、レクサスは最高だ。一方で他人が乗っている車も艶っぽく見えた。今度欲望を解放しポルシェに乗ってみる。最高だ。気分が上がる。しかし上には上がいる。良い車や高い車が良いのではなく、自分がいいと思った車が良いのだ。人と比較する必要はない。改めて気が付いた。高い車に乗る人は、素晴らしい生活をしているかどうかはわからない。その人の気分が高まっているかもわからない。しかし、資産とともに確実に負債を増やしていることは推察できる。そんな見方をするようになると、他人と比較するのが馬鹿らしくなった。自分が乗りたい車が最高なのだ。なんだか悟れた気分だった。自分の車に対する欲望を理解し、受け入れる。執着はなくなったと思う。今はイタリア車に落ち着いている。

老子の教えとしての解釈だ。欲望を隠し持つのではなく、それを自然に理解し、受け入れ、そして執着を減らす。これは、無理に欲望を抑え込むのではなく、心の中で欲望が自然に小さくなるような状態を目指すのだ。

ここでマズローの欲求段階説を思い出す。人間の欲を5つにジャンル分けした理論だ。原始的な欲は生理的な欲求で、食欲や性欲、睡眠欲を満たすことだ。次に安全の欲求を欲する。現代日本社会は、安全の欲求までは当たり前で、夜中に子供が一人で歩いても襲われることも無く、落とした財布もほぼ確実に手元に戻ってくる。雨風もしのげ、災害がおきても誰かが放置することはない。この2つの物質的な欲は、国民は充足されている。

3つ目は社会的欲求だ。学歴や組織に属したい欲だ。誰かの自己紹介を聞くと面白い。日本人は「どこどこ組織の早嶋です」と紹介する。アメリカ人は、「経営コンサルタントの早嶋です」と紹介する。日本人がより深く社会的なつながりの中を生きているのだろう。この社会的なつながりは、一定の努力や運が必要で物質的な欲と異なり、実は誰にも見えないし、当人がそのような欲を持っているなど誰も考えない。しかし本人は、「自分はこんなに地位が低い」とか勝手に考えている。仮に一定の組織やコミュニティに属したとしても、今度は4つ目の欲でなぜか誰かに認めてもらいたいと考える。「見てみて、すごいでしょう!」「すごいね!」的な儀式だ。承認欲求は、元来子供が親から注目を引いて安全を確保するためのツールだったと思う。成人した大人は自分で安全を確保出来ているわけだから社会からの承認を欲し無くても良いのだ。

「SNSをうんざりだ」と誰もが言いながら、垣間見ている理由はこの3つ目、4つ目の欲が関与しているのではないか。「私は誰とつながって、誰と食事して、誰と仲が良いのよ」まさに、自分の社会的なつながりを強調し、周囲から承認を得る動機が働いている。10年前は知りもし得なかった他人の社会的なつながりを見て、比較してしまう。勝手に優劣をつけて高揚し、不安になる。

しかし、そこも老子の教えのように自分の欲望を隠し、抑え込む必要はない。やりたいことをどんどん行い、欲望を隠すのではなく、徹底的に欲に従って行動するのだ。中途半端ではなく、腹いっぱいやりすぎるくらい。すると、その欲が何なのかが見えてきて、社会のつながりも、見ず知らずの他人からの「承認やいいね」もどうでも良くなるのだ。そして5つ目の、自己実現の欲求に到達するのだ。

冒頭、現状に満足することの重要性を説き、今の充足した世界においてイノベーションを起こす際に、再考すべき概念だと思う。ということで「足るを知る」から論考しているが、現状に満足すると新たなイノベーションや創発は逆に起きにくくならないだろうか。必要は発明の母なる言葉がそれを物語っているが。

しかし、現状に満足することが必ずしも新たな発想やイノベーションを妨げるわけではない。実際に、満足とイノベーションは共存でき、互いに補完し合うこともある。不安定な状態より安定した状態が創造性が高まる場合がある。満足は心の安定をもたらす。結果、創造性を促進するのだ。ストレスや不安が少ない状態だからこそ、自由な発想と柔軟な思考を勝ち得ることもある。

現状に満足することは、現状を正確に認識し、その上で改善点を見つける能力も高める。満足から発するポジティブな視点は、建設的な批判や新しいアイデアの発掘を促す。外発的な欲から自分の内から湧き出る興味や情熱に基づき行動することで、より本質的なアイデアが生まれることもあるだろう。

破壊的なイノベーションは結果論で、実は持続的なイノベーションを繰り返した延長にあるのではという見方もできる。それは無理に現状を否定せず、既存を尊重し、それに基づき新しい価値を創造することだ。「足るを知る」という概念は、無理な消費や過剰な開発を避け、持続可能な形での発展を可能にするのだ。

忙しい中で、新たな発想は出るだろうか。毎日を満たされた状態で心を休息させる。そのリフレッシュが新たな視点を生むこともあるのだ。休息とリフレッシュは、創造的プロセスにおいて重要な要素なのだ。

「足るを知る」中国の古典思想がルーツだが、似たような表現が英語であるか調べてみた。結果、英語圏でも広く認識され実践されていることがわかる。

満足は「contentment」で、「現在の状況に満足すること」という意味だ。「足るを知る」という概念に近い。「gratitude」は感謝の気持ちを表し、自分が持ち得るものに感謝し、それを価値あるものとして認識する。日本語でも馴染のある「simple」はそれこそシンプルな生活を追求することで、必要以上の欲望を持たず、現状に満足するというライフスタイルだ。他にも、「Enough is as good as a feast(十分なものはごちそうと同じくらい良い)」という諺もある。満足を知ることの大切さを強調する。必要以上を求めるのではなく、十分であることを喜ぶのだ。最近良く耳にするようになった「Mindfulness(マインドフルネス)」この実践は、現在の瞬間に注意を向けることで、心の平和と満足を得る手法だ。そして、哲学のルーツでもある「Stoicism(ストア哲学)」これこそ、欲望を制御し、理性を持ち現実を受け入れることを重視した思想だ。どれも「足るを知る」に非常に近しい概念だと思う。

ところで齢を取るとともに理解が深まることが多々ある。20年前お自分に「足るを知る」と言ったところでピンとこなかっただろう。20代までは欲の塊。欲しいし、食べたいし、遊びたい。そんな状態だったと思う。しかし、徹底して取り組むと何かしらの物寂しさを覚えた。そして仕事の楽しさ、仕事の本質を知ると充足されると思った。私の場合は会社を辞め、どれだけ自分の力で取り組めるかを試したくなり独立した。当初は自分のための取り組みが仕事だと思っていた。本当は相手のビジョン構築の手伝いであったり、相手の商売繁盛を支援することだと気がつくのは随分あとになってからだ。それから人と関わりながら長期間かけてビジョンを達成する取り組みが楽しくなり、仕事が軌道に乗り始める。

マズローの欲求に6つ目がある。自己超越。つまり、最終的には他者のために行うことで欲を満たすという考えだ。まさに利他の心だ。一方で気になることがある。今の若い人の中で、初めから人のために尽くすという取り組みを一生懸命されている方がいる。無心に相手のために取り組んでいるのだ。

確かに昨今の調査や研究では他に施すことで幸せを満たせるというのが明らかになっている。しかし、自分の欲が満たない時に、一足飛びに他社に尽くすというのが実は欲望を抑えているようにも見えてしまう。自分の欲望を自分と対峙しながら時間をかけて経験として身につける。その上での自己超越は意味がある。しかし未だ、内面が満たされない状態を埋める手段として利他の心を無理やり持つのは矛盾が生じる。

既にヘッドニック。トレッドミルの状態、つまり一定の給与レベルや基本ニーズが満たされた状態であれば、昇給や昇進をしても、爆買いしても一瞬は気分が高揚するだろうが、過ぎに元の鞘に戻ってしまう。そのような場合は、自分の内面に向き合って、やがてそれらを外に開放する。ここには順番に欲をにたしていくことが大切だと思う。それが欲望を隠し持つことではなく、自然に理解して、受け入れ、そして執着を減らすことなのだ。

再び古代ギリシャの例えを思いつく。素晴らしい人生の側面を2つに分けた。ヘドニアとユーダイモニアだ。ヘドニアは快楽中心の側面でユーダイモニアは特と意義を重視する側面だ。まさに社会的なつながりや側面を指す概念だ。

クレイトン・クリステンセンも「プロフェッショナル人生論」で「紙が私の人生を評価する物差しは、お金ではなく、私が関わりを持った一人ひとりである」と結論付けている。これらを網羅したフレームワークはPERMAモデルで説明しているので、別のブログを参照して欲しい。

(過去の記事)
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