自然は描くことができない

2021年5月19日 水曜日

早嶋です。

ふと、小学校の美術の授業の時に「自然を描く」というテーマの中で私だけコンクリートの壁を熱心に描いたことを思い出した。他の小学生は、もちろん教科書通りに山と空と近くの林を描いた。私なりにコンクリートの壁を描写することで主張したいことがあったが、当時はそれを表現できなかった。

自然とは。国語辞典等を引いてみると、「人為が加わっていない、ありのままの状態や現象」とあり、その対に人工とある。

これらをベースに考えると山、海、空など人工物の少ない環境は自然環境と呼ばれる。また人為が加わらないという解釈だけだと、人を除く生物全般も自然になる。一方で人は人為を加えて創造した生物では無いとすれば、人もまた自然と捉えることができて、天地や宇宙の万物を示すと考えることができる。

ちょっと考えただけで面白い。

今44歳で確かに小学生の時に紙一枚に目の前のコンクリートの壁を丁寧に描写した。実に30数年前だ。その頃の山は、当時私が通っていた学校からの景色だから岩屋山だ。すでに誰かが登っており、頂上には何かの観測のための設備と、電力を送るための送電線らしきものが山の中腹に見え隠れしていた。人為が加わっていると捉えると、その山は自然ではないし、あるいは一部は自然ではないということもできるし、人もまた自然の一部としたらそれもまた自然ともいえる。うーん。

もちろん、それは山は自然ですよ。そして早嶋少年の目の前のコンクリートの壁は人工物でしょう。という話は先生もしなかったと思うが、幼いときの早嶋少年はどこか偏屈な考えを持っていたので、概念的には同じではないかと考えていたのかもしれない。しれないというのは、その記憶が今朝、突如出てきたので、その記憶が正しのか、今作っているのかがわからないからだ。ただ、当時の絵はおそらく実家の押し入れの中のダンボールの中にあるはずだ。ただその作品はおそらく自然を書いたつもりだが作品は自然ではない。

古代ギリシャでは自然はピシュスとされ、世界の根源とされ絶対的なモノとして把握されている。その対立は人工ではなくノモスで法や社会的な制度とされた。その理由は自然と頃なり相対的な存在で人為的なモノであるから変更が可能というところで、対立の概念に置かれているのだ。このような対立を立てて考えるアンチテーゼはいかにも古代ギリシャらしいと思う。そんなに沢山の書物は読んでいないが。。

中世ヨーロッパのスコラ哲学の中にも自然の記述がある。「神は2つの書物を書いた」それが聖書と自然だ。聖書を読むことで神の考えを知り、万物のベースになっている自然を理解しようとするのだ。面白い思想だと思う。数学者で知られるガリレオ・ガリレイは神は多数の言葉で聖書を書いて「数学の言葉で自然という書物を書いた」と述べているらしい。

この話は英語の語源にもある。法則や法律を意味するLAWがそうだ。Lawは置くを意味するLayの過去分詞で、「神によって置かれたもの」が由来だそうだ。今教育やビジネスでも熱く議論されているリベラルアーツも聖書を理解するための文法、修辞学、弁証法と自然を理解するための算術、幾何、天文、音楽の7科としている。まさに自然、数の言葉で書かれたほうの書物を理解するために身につけるべき視点なのだ。

日本では「しぜん」を「じねん」とよぶ場合もある。万物のありのままの存在を示し、因果によって生じるものではないとする考えのとき「じねん」という。全てに因果があると考える仏教の因果論の対局で、無因論ともいうべきものだ。そう捉えると自然は外からの影響なく本来持つ性質や、その一定の性質から派生してできたものと捉えることができる。そこには偶然やたまたまもあり得ると思う。少なくとも今と違って、古来の日本的な考えの中には、今の自然と違って、人と自然の間に隔たりを持つことなく、ただ自然(じねん)にあるもの。という精神風土が少なくとも日本にはあったのだろう。

養老孟司さんは、自然は常にあるもので意味は無い。とする。前述した感覚所与の話と同じで人は得られた感覚を脳みそを通して意味を考え、最後はその意味が無いものを無視してしまう傾向にある。

現代社会の人が自然を見たときは、おそらく感じることではなく、その感じた結果に対して無理くり意味を見出して自然を楽しみ、慈しみ、懐かしみと、とにかく自然という本来意味の無いものに対しても意味を感じているのだ。そのため、人が意味を感じなくなってしまえば、その空間や概念は目の前にあったとしても、その人からは存在そのものを消されてしまう。物理的に存在するものは、その人の目の前から物理的に破壊され消去されてしまうのだ。

結果的に感覚所与を意味のあると思うものに限定して、最小の世界を作りだしたのが現代の思想で、最小の世界に閉じて世界を満たしている人の特徴が都会人だと養老孟司さんは主張している。実に面白いと思う。

小学校の授業で自然を描きなさい。というお題は、感覚所与で感じる自然、つまり意味の無いものに対して、人のアタマを通して考えさせ、その人のアタマの中での意味に解釈しなおした作品を表現する。というのであれば、当時の早嶋少年が書いた目の前のコンクリートの壁は、それまでは確実に自然だったと言える。少なくとも当時の早嶋少年は、そこにコンクリートの壁があることを議論することも考えることも疑問に持つこともなかったのだ。そこに自然を描きなさいという究極に問答のようなお題によって、結果的に意味のあるものを創造したのだから。

つまるところ、禅の問答のように自然を描くことはできないのだ。自然は意味がないもので、その意味が無いものを書いた瞬間に、誰かがアタマの中で考え始める。その瞬間から、描いた対象やその作品自体に意味が出来上がってしまうからだ。

ルネ・マグリットの作品の中にイメージの裏切りがある。パイプの絵の下にフランス語で「これはパイプではない」と書かれた作品だ。

当時の早嶋少年を後押ししたい。目の前のコンクリートの壁を書いても、本来の自然を描くことができたとしても、それは見た人が意識した瞬間に自然ではないはずだ。もしそれができるとしたら、それはすなわち神になる。これまで神しか自然を記述することができなかったのだから。

すなわち、自然を書いてとするお題自体が確実に矛盾であり、できもしないお題なのだ。それだったら、教科書をじっと見て、パクって、似たような自然の絵を描きなさい。もっと言えば、先生が描いて欲しい構図を予測して、小学生らしい作品を仕上げなさい、と先生は言うべきだったのではと。

ふと、小学校の美術の授業の時に「自然を描く」というテーマの中で私だけコンクリートの壁を熱心に描いたことを思い出した朝だった。



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