早嶋です。
1980年代の右肩成長を経験している経営者の多くは、投入量である人、モノ、金を投入することで成果を最大化することを考える。しかし、95年をピークに日本の成長は低迷して投入量に比例して成果がでる仕組みは終わった。これはこれまでの思考の延長、取り組みを継続してその活動量を増やしても成果が上がらないことを意味する。しかし、そのことに気が付かずにこの手の経営者はトップを増やすことを考えずに、コストを削減して利益を捻出することを考える。そう、今度はとたんに投入量を減らす動きになるのだ。
固定費を下げるために戦略なき一律カットの嵐。昼間に電気が消され、長期投資のはずの人材の雇用がたたれ、研究開発であろうが営業部門であろうが部門や機能に関係なく一律コストカット。従って、社員の脳みそにも成果を上げることよりもちまちまと投入量を下げることに一生懸命の思考になる。
これらを図式にすると次のようになる。
効率=アウトプット/インプット=売上/コスト=利益/人・モノ・金=成果/投下資源
1980年代まで、分母を増やすと比例的に分子である成果が伸びた。が、1995年頃より世の中の変化が激しくなり、前提が崩れた。にも関わらず、相変わらず投入量を増やす取り組みに躍起になるも成果がでず、一転して今度は投入量を下げる動きに。
図式化するとわかるように、分母には理屈上の限界があるが、分子にはそれが無い。なのに、今の多くの大のつく企業では成果を最大化する動きはあまり観察できない。が、図式化すると、コストを削減するよりは、現在の投入量において、そもそも成果を最大化する動きはないか?と疑問に持てる。
この取り組みは生産性の向上ということで当たり前に製造業の技術的な取り組みではよく行われている。トヨタの改善のように、車を作る工程を詳細に分けて、1つの工程をタクトとして、1分くらいの時間を標準化する。次に、そのタクトで組立られる成果の質を上げる取り組みをする。その際、1分の時間を短くすることにもフォーカスする。従って、決められた投入量を維持、或いは減らしながら成果を上げる動きをするので生産性が何倍にも高くなるのだ。
が、この動きは研究開発にはどうだろうか?モノ創る側はそんなちまちま言ってもしょうがない。と言いながらも日本の研究開発費全体の投入量に対してのノーベル賞の個数であったり、実際に価値を産んでいる特許の数は他の国と比較して低い。そう、やっている割には成果を出せてないのだ。
また、これに対してのマーケティングについてはどうだろうか?なんとなくこれまで展示会を行ってきていたから、その続きで予算化して集客をする。人が集まらないからコンパニオンを派手にして景気をつける。が、実際にそこに集まった名刺で価値がある名刺はあるか?その名刺を集めるために、コストをいくらかけているのか。今の時代であれば、ネットで検索して情報を収取するのが当たり前の世の中なのに、商品を特価したランディングページや情報サイトは大企業では驚くほど少ない。
更に、事務や文章作成などのスタッフ部門の仕事において、ブラックとかホワイトとかで時間の長い、短いの議論が進んでいるが、これはいかがなものか。もし仮に時間の問題で議論されるのであれば、その仕事は基本は誰でも行える仕事であるから、時給そのものの概念を見直す作業と、その時給に対して平均的に生み出す価値が適正であるかの議論が必要だ。
もしAさんが1時間あたり5の仕事を行い、Bさんが10の仕事を行えば。今の世の中Bさんが損をすると考える。経営者であれば、当然Bさんは余った時間で他の取り組みを行いますが、今の雇用のルールを変に解釈するとAさんが2時間で10の仕事をするので稼ぎはA>Bとなってしまう。Bさんがやる気がない、飛び出すことを考えない、のであれば普通はBさんは能力を隠して1時間で5の仕事をするようになるでしょう。
そう。日本は総じて、成果に対して、どの程度の投入量をかけているかの議論が工業的な製造現場でしか試されていないと思う。それを全ての領域に持っていき、再度適切な仕事を定義して、その仕事は基本的な投入量までを規定する。そのような取組をしてはじめて時間の削減とか、シェアなども考える。或いは同時並行的に行うべきだと思う。もし嫌なのであれば、自分の成果に対してはホワイトカラー・エグゼンプションの概念を導入すべきだ。と思います。