好きだけど嫌いという感情

2016年1月20日 水曜日

早嶋です。

AIが世の中を支配するかも知れないという論調がある。しかし私は人間が完全な思考を持たないが故に、完全な思考の持ち主のコンピューターが出てきても案外と役にたたないのではないかと思って楽観視している。

例えば、A=BとA≠Bは明らかに対局の考えを示す。ということは、コンピューターは、この事象が同時に起こることを絶対に理解できない。

例えば、「この壁紙に張り紙をしてはいけません。」という張り紙がある。普通は何も考えないが、かなり論理が破綻している。小学校の時に聞いた海坊主の話もそうだ。子どもをビビらせるために大人は悪いことをした子どもに海坊主が出るぞという。そしてその海坊主を見たものは死ぬという。これも同じだ。見た人は死ぬのになんで海坊主の存在だけが語られるのか。

数学者のゲーデルはかねてからこの手の矛盾について考えており、ゲーデルの世界とも言われている。

人の意思決定に対しても同じかもしれない。部下が合理的な判断を示すためにAというプラントBというプランの予測を立てる。上司はその判断をなかなか信用しない。が、上司が氏と仰ぐ先生が同じ分析をした場合、上司はその判断を参考にする。

そう、同じ合理的な判定があっても誰が出したかによって、人は信じたり信じなかったりする。合理的以上に、非合理の世界が人間らしさを作っているのだ。ロボットににプログラミングしても、自己学習をしても、AIが自分の感情をもつまでにまだまだ途方も無い時間がかかるのではないかと思っている。そして仮にその感情が芽生えたとして、「あなたが嫌い、だけど好き」というような判断をした瞬間、きっと回路がショートするのではないかと思う。



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