日本の教育

2013年7月24日 水曜日

大学の先輩にお会いしてお話をした。と言っても、御年84歳。15歳の時に第二次世界大戦を経験し、当時、海軍のエリート教育を受けられていた方だ。当時の陸軍は、内向きの発想で外来語は全て日本語に置き換える。発想は武士道一本。その中で海軍は視点を広く持ち、英語教育を取り入れるという考え方。ただ、どちらにも共通して国を良くする、勝つまで諦めないという精神はあった。日本軍が当時大敗した理由に、陸軍と海軍の強烈な文化の違いもあったのでしょう。

戦後の日本は戦争では負けたけど、経済では急激に躍進。当時はアメリカそのものが答えで、それに誰よりも早くたどり着くための教育が取り入れられた。考え方も外のものを輸入して、その概念を独自に当てはめ、ただひたすら頑張りながら良い物を提供していった。結果的に別の国や他の企業が行なっていることを誰よりも早く良い品質レベルで提供できるようになった。

上記は20世紀にフィットしていた考え方。全ての義務教育にはカリキュラムがあり、明確な教育方針があった。教師は、その教育方針から大きくずれない範囲で正解を追求するか不正解かを確認する教育を施した。全ては、偏差値という一次元的な数値のみで図られる。偏差値が低いものは自分の人生を諦めて行動をやめる、偏差値が高いものが出世してエリートになっていった。

私が高校生の時も同様のことを考えたことがある。理数系が強かったので公立高校の数学特別クラスに選別されていた。その時の同期の多くは医者。彼ら彼女らは高校の時に医者を目指していたわけではなく、偏差値が高かったのでたまたま医学部を受けるという同期が多かった。高校も生徒の将来の進路よりも現在の偏差値をベースに受験する大学を決めていた。明らかに順番がおかしいと思っていた。

大学に進学した時も同様。成績が良い学生は教授から院に進学するように進められる。前期後期と進むにつれてアカデミックスマートになるけれども、ストリートでは活用できない脳みそができていく。日本の大学はアカデミックな人材を大量に生産することが得意になり、社会に出て活躍する人材の教育には手薄になった。

現在、上記のように大量生産する教育に否が向けられている一方、クリステンセンのジレンマのように過去のやり方を変えられない、慣性の法則から抜け出せない教育機関が入り交じっている。第二次世界大戦のように真逆の考え方が交錯している教育がある。自分の息子を今の教育環境に預ける気持ちは全く無い。はじめから大志を抱き、世界のトップを目指すような考え方、生き方、行動の仕方ができるようにしたい。何かの基軸でたまたま評価されるのではなく、自分が選んだ分野をみずら切り開く力を持ってもらいたい。努力をしないで、みんなで安心してゴールする文化はありえないと思う。



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