早嶋です。
世の中は多様化し、スピードが昔より早くなりました。必ずしもその道の経験者がトップに立つ時代も終焉を迎えています。若い人がリードして行く。経験や年齢に関係なくリーダーとして活躍できる時代になってきました。そんな中、多くの方々から同様の悩みを聞きます。
年上の部下にどのように指示をするのか?です。
早嶋は考えます。どんな状況であれ、自分がその立場や地位についた理由があるでしょう。しかしだからといって偉いとか驕る理由もありません。どのような人であれリスペクトすべきです。年齢の上下に関係なく、経験の有無に関係なく、実力の優劣に関係なく。人は何かの物差しでは秀で、何かの物差しでは劣るでしょう。たまたま評価されたのか、評価されるステージに自分を導いたのか。ここには大きな違いがありますが。今いるポジションは役割であって、偉いとか偉くないとかは全く異なる問題です。
そのように考えると、自分を自分以上の実力に見せる必要はないと思います。組織はグループではなくチームです。共通のゴールをともに達成するための集団です。従って、トップに人間は、リーダーとなる人間は、チームの力を合わせてゴールを達成するように支援して行くという考え方もあると思います。自分より詳しい人、できる人、すごい人、沢山います。当たり前です。しかし、リードすることはできます。そのためには、チームを巻き込んで行く発想がフィットします。自分がすべてを行うのではなく、できる人をアサインしてどんどん仕事を振っていくのです。
童謡に「すずめの学校」と「めだかの学校」があります。今の時代「めだかの学校」発想がフィットすると思います。
『すずめの学校』
チイチイパッパ チイパッパ
すずめの 学校の 先生は
ムチを 振り振り チイパッパ
生徒の すずめは 輪になって
お口を そろえて チイパッパ
まだまだ いけない チイパッパ
もいちど 一緒に チイパッパ
チイチイパッパ チイパッパ
『めだかの学校』
めだかの 学校の めだかたち
だれが 生徒か 先生か
だれが 生徒か 先生か
みんなで 元気に 遊んでる
「すずめの学校」は清水かつら氏が戦前に作詞した童謡です。先生が生徒にムチを振るって命令し、生徒は自己思想を禁じられます。国策に向かってまっしぐら。生徒はただただ口を揃えてチイパッパ。超トップダウンの象徴です。
一方、「めだかの学校」は茶木滋氏が作詞した童謡です。1950年の作品なので戦後です。先生と生徒が区別されず平等を説いています。一緒に泳ぐ。みんなで元気に遊ぶ。協力しながら一つのゴールを達成していく。今のファシリテーター型リーダーシップの象徴です。
すずめの学校と、めだかの学校。分かりやすく、明瞭、かつ記憶に残るたとえですね。すごい。
たしか、カーネギーか誰かの墓碑には、「吾より有能な人物を使った男、ここに眠る」と彫られているとか。「おれが、おれが」でなく、餅は餅屋なんでしょうね。ほんと、そのとおりだと思います。
いつもコメント、ありがとうございます。
ファシリテーションをしていて、雀の学校の話になったので、調べてみました。