火に油を注ぐ統合
2021年2月24日
早嶋です。
過日のこと。過去何度も家具を購入していた店舗が新しく家電を扱うとのことで冷蔵庫を購入した。今の冷蔵庫は機能的に問題が在るわけではないが、度重なる引っ越しのため多少ボコボコになっており、子供の成長とともに容量に余裕があったらいいねという背景からだ。
一方で、冷蔵庫を今置いている場所までの導線にやや難ありで、運ぶのが大変だろうと思い、事前に家具屋さんに相談。更に現地を見て頂き、別途特別料金を支払いOKとのことで購入に至った。ちなみに現調に来た方は丁寧で写真を取りながら運搬のシミュレーションを行っていた。
が、当日。古い冷蔵庫を運ぶタイミングに手すりや床などを激しく損傷している。現場には妻が立ち会っており、その場で電話を受けた。当初運搬していた方々は、「我々がツケた傷ではない」「冷蔵庫にも傷がない」「はじめからの傷では」と堂々と嘘をついたという。私は妻の危険を感じすぐに家に飛び戻る。
リーダー1名、部下3名。男手4人で緩衝材をつけて作業すること無く運搬。現場の梱包開放の粗さや作業途中を見る限り起こるべくして起きた事故。記録のためすべて写真に収める。推測だが本部や調査部隊の報告書など水に当日作業をしている様子。あるいは当日ちょろっと目を通して、リーダーの判断で適当に運んだに違いない。残念ながらそのような形跡にしかみえなかったのだ。
実施に運搬していた2人と他の2人は、私が戻ると態度が一変して主張を変えている。自分たちが傷つけたと。しかし、明らかに不服そうな目をしており、しかもリーダーらしき人間に状況を伺い話を聞くも目が泳いでる。事前に支払った金額には冷蔵庫の代金と通常の運搬代金に加えて、特殊な要領で運ぶための追加料金も支払った契約だった。
当時、契約を担当された方にその場で連絡をして、現場を調査した方にもヒアリングした。どのような手順で運び、どのような指示をしたか確認した。現場の手すりや階段に一定の保護を施した後に運ぶなど細かい指示をしていると言う。が、現状と写真を見せて絶句。現場は全く指示に従った作業ではなかった。
妻が感じたであろう恐怖に加え、現場のリーダーや若者が些細なことを隠して嘘をついて乗り切ってきたであろう背景がみえた。煮えきれない。加えて、本部の仕事が現場に伝わわず、それを放置している状況が垣間見えた。
その家具屋は長年親子関係のゴタゴタで経営層はかなりトラブっていた。一方で家具を展示し説明し運搬する店舗や現場は全くの粗相が無く気に入っていた。結果、経営陣が変わり新たに家電を扱う状況になった。家具の単価は数十万から数百万。家電の単価は高級と言えども数十万。家具を運搬する部隊と家電を運搬する部隊は別系統のようでトレーニングがバラバラ。そこらの引越屋さん以下である。
家具と家電が両方変えて便利だと思っていたが、購買後のフォローと設置は、そもそも異なるのだ。この統合はしばらく時間がかかるだろう。それから現場の粗相は今後も続き、結果的に家具屋と電気屋のブランドは地に落ちると見る。
その電気屋はコロナを機に地方の店舗を増床する計画を発表している。家電を売ることばかりに目が行き、設置は相変わらず第三者の地場企業に丸投げ。売った後のフォローなんてこれっぽっちも考えていない様子。
そう言えば、昔同じ電気屋から目の付け所がシャープな商品を購入し設置してもらったことがある。冷房機だ。結果、廉価版に設計した商品で、この時代に十分な機能を果たさず返品したことがある。聞けば値段を下げるために機能を落としているとか。常に売ることしか考えていないメーカーはそう簡単に考えを変えないのだろう。
どこの世界でも現場や子供の粗相はすべてが親の責任。資本競争や売上競争に明け暮れる前に、既存の顧客や現場の様子を自分で見て確かめるべきだ。が、一生そのようなことはできないだろう。
フォロワーの重要性
2021年2月22日
早嶋です。
1月と2月。ここ福岡では2度の寒波があり、めずらしくベランダに置いていたメダカの鉢に氷が張った。先週、気温が高まりじっと湖面に潜んでいたメダカが活発に泳ぎ始めた。
久々に餌付けを開始するも、冬の間にひっそりと冬を越していたメダカには主の記憶はない。今朝、3日目の餌付けで、ようやく1匹のメダカが恐る恐る餌を食べだした。正確には餌をあげた後、主の姿が消えた後に食べていただろう。しかし、主の姿がまだ見える間に1匹のメダカが餌を食べ始めたのだ。
するとどうだろう、恐る恐る湖底から、実際は鉢の底だが、眺めていた2匹目が同じように水面に浮いている餌を食べ始めたのだ。そしてしばらく立つと、ムーブメントが起きた。それまで息を殺していたメダカたちがわっと出てきて我も我もと餌を食べ始めるのだ。
チームにおいて、リーダーは称賛されるが、フォローがいなければリーダーになりえない。むしろ一人で危険を犯す只のバカになるのだ。しかしフォロワーがつくことで3匹目、4匹目を誘い一気に全体のメダカが動き始める。
組織を動かす場合、勇気を持ってリーダーになっても、2人目、3人目の存在を認めてフォローしてもらうことがムーブメントを起こすポイントになる。自分の組織が芳しくない場合、自分の能力を問題視する前に、右腕や左腕の存在を認め小さく行動をはじめて見てはいかがだろうか。
ジョブ型雇用を取り入れながらマネジメント層のコーチング能力を高める
2021年2月17日
早嶋です。
職務内容に応じて求められる能力や経験を明らかにして職務明細書(job descripution)を示した上で雇用する。従来の新卒一括採用から社員の適応をみながらポストに充てていくメンバーシップ型の対局であるジョブ型雇用の導入が増えつつあります。入社年次に関係なく、そのポストに相応しい人材を充てる制度なので、直感的にはもっと早くから導入していればと思う方も多いでしょう。
日本では、制度上職務を規定せずに多様な仕事を経験させてキャリアを形成してきた社員が多いため、「自分の強みはなんですか?」「仕事におけるあなたの役割はなんですか?」と問うても答えを返せない社員が多いのも現実でしょう。高度経済成長期に制定された組織制度が長らく低迷、多くの方が心の底では規定していると思います。そのような組織は結果的に積極的に仕事をすることもなく、何かしらの改善を提案することもなく、単にマネジメントの指示通り動いていく。
私の仮説ですが、ジョブ型雇用を導入したい企業の多くが、マネジメントが不活性で指示待ち人間が多い職場のように感じます。このような職場の特徴は、過去5年、10年以上も組織の大きな変革は無く、過去と同じく繰り返しの仕事を行っている。業績は悪くは無いがピークの頃を偲んでなんとなく今の仕事をこなしているが先が見えない。だからと言って多くの社員は転職することも無く今の仕事のしがみついている。自分の能力が今の組織外で活躍するとも思っていないし、転職することで給与が下がる恐れを持っている方が多いからです。
トップマネジメントは社員に対して新規事業の方向性を説いているが、自分たちで動くこともせずに、数年後の構想すらあやふやなまま。若手やマネジメント層から提言があれば、前向きに進む前に出来ない理由を並べるか、できる証拠を示せといい新規の提案を潰している。自分たちも既存の事業モデルが出来上がった頃にマネジメントになっているので今の事業を維持拡大することはできても、新たに創造する経験が無いので実はやり方がわからないのです。そして特に共通の項目としてみられる現象が本質的なコミュニケーション不足です。何かの方針に対してはトップダウンで、その方針が決まった背景や経緯をごく一部しか知らず、共有させる必要性や意義もわからない。現場は常に、具体的な指示に変換した取り組みが降りてくるので「なぜ」行うかなどを5年、10年考えたことが無いので自分たちが行っている行動や業務が実は明後日の方向を向いていても気が付かないし思考しない組織が出来上がっているのです。
そんな組織の中で、皆業務を余りこなさないけど、意識的に仕事をしていないわけでは無いので、目立った人が業績を上げても、その人の成果だと余り認めたくない。じっと我慢して将来給与をあがるのをシクシクと待っているのです。ジョブ型雇用の導入に対してはサイレントを保ったまま、できれば今のままにしてほしいというのが本音では無いでしょうか。
働き方改革は確かに大歓迎でしょうが、賃金とポストが連動して、年功序列に関係なく人の評価が変わる制度に対しては会社が急に言っても受け入れたくないのでは無いでしょうか。「私だってできるのに」「なんで自分よりも若い人が」「なんで私ではないのか」等々。不満の声が続々と出てきそうです。もちろん表情を変えずに、ここの中にしまっているでしょうが。5年、10年上司と部下のコミュニケーションが取られていないため、お互いにそのわだかまりが在ることは何となく知っていても、どうして良いのかわからない状態だからです。
マネジメントからすると「理解している」「コミュニケーションは取れている」などと全否定する人も居るでしょう。私もあなたを否定する意図はありませんが、平均的な組織のマネジメントからすると出来ていいないということを書いています。そのためマネジメント層におけるコミュニケーション、特にコーチングで求められる相手の話を傾聴する、相手の考えを引き出す質問。そしてテクニック以外に会社の現状がどうなっていて、今後どうするべきかを自分の見解として語れる力。このような能力がなければ、出来ていると言えないかも知れません。
従来の職場では、気のあった部下や後輩とはコミュニケーションを取っています。コロナの前はちょいと軽くノミニケーションも取っていたかも知れません。話を聞かないで相談に対しては結論を押し付けて、過去の自分の事例を押し出して終わっていたかも知れません。更に言えば、自分が気に食わない部下やウマが合わない部下とは意図的にコミュニケーション取るどころか距離をおいているかも知れません。チームとして仕事をする時の大義名分を自分の言葉で語ることもなく、上からの指示と下に伝えただけかも知れません。
欧米の先進企業、少なくともジョブ型雇用を長らく導入している企業、は上司と部下のコミュニケーションに1:1(ワンオンワン)という手法を積極的に取り入れています。いや私も行っているよ。と思う半期に一度程度の効果舎面談とは異なります。1週間から2週間に1度のペースで1回1時間程度の日程を確保して連続して行われます。仕事の進捗や相談は当然のこと、部下の悩みやキャリアの相談に乗ることも日常です。当然に経営方針の疑問や理解を深める時間にも充て、マネジメントが10%は部下のための時間を確保するという所以です。成果主義ではありますが、成果を出す過程をマネジメントが把握しなければチューニングも出来ないし、同じ取り組みを他に展開することも出来ません。結果を出すためのプロセス管理も日常的にマネジメントの職責として実施するのです。部下や組織のパフォーマンスは上がりますよね。
クライアント企業のセールス部隊80名のトップマネジメントと複数名のマネジメントに対して2年間、試行錯誤しながら1:1の手法を取り入れたことがあります。はじめは自分の仕事や成績につながらない行動は行っていなかったセールスも、企業や事業の方針、ブランドの方針を理解するにつれて個人の成績と共にチームの成果を追求する重要性を理解して日常的な行動が変わっていく経験をさせて頂きました。自分の成績が悪い時は他のヘルプがあり、結果的に顧客体験が常に最高に保たれるので2年、3年の乗り換えの期間にもまたそのセールスチームを頼って顧客が戻って来るようになったのです。見た目の瞬間的な取り組みに成果が宿るのではなく、長期的な意味在る導線づくりと手間が結果的に毎日の成果を生み出しているのです。
1:1を続けると、一方的に話すスタイルはすぐにネタが尽きてしまうので、必然的に現場のことや過去、将来、過程と様々なことを聴くようになります。マネジメントはそれに加えて否定せずに一度受け入れる。仮に反対のことを言わないといけないときもじっくり聞いて、その中でプラスのフィードバックを始めに行った上で、私だったら◎◎というようにチームとして目標を達成するコミュニケーションを行うようになってきます。まさに、マネジメントが皆コーチになる必要性に気がつくと思うのです。
ジョブ型雇用の受け入れを考える組織は、今からマネジメント層のコーチングのトレーニングを強化しないと、採用した優秀な部下のコストを回収出来ないままに、その社員は他にジョブホッピングするという意味の無い取り組みを行い、一層人材エージェントだけがウハウハになるカラクリがみえてきます。マネジメント、あなたが変わることが大切なのです。
ライスワークからライフワークへ
2021年2月15日
要は、今の自分を認めて、今の自分を楽しむ。そのためにライフワークに力点を置く人生の舵取りを徐々にはじめて行けばよいのでは?と思うのです。
(稲作文化がムラ社会を作る)
かつての諸先輩方は狩猟と漁による生活から稲作文化の浸透によって農耕文化が広まり、その結果集団で協力して農耕作業を行うようになりました。特に平野が少ない山間の土地では棚田を器用につくり農耕を行います。もし、上の棚田で仕事をしている人が中途半端に働けば下に水がいかなくなります。誰かがサボれば誰かに多大なる影響を与えることになります。結果的に集団で協力して皆が手を抜かないで仕事をすることが我々のマインドに刻まれたのです。
日本人の中には手が器用な者もいました。彼ら彼女らはその力を発揮して様々なモノや道具をつくり、それらを広範囲に交易していきます。はじめは農業の片手間に作っていたのを、徐々に手工業を主とする仕事に変え、生産力を高め、やがて職人が生まれたと思います。職人は、常に自分の技術を磨き、自分の技が認められるとその仕事と技に誇りを持つよになります。それが更に献身的に仕事に磨きをかけるようなります。多くの職人は他とのコミュニケーションを取ることなく黙々と技を磨き自己との対話を繰り返すようになったのです。
士農工商の身分制度により江戸時代には武士の役割が明確になりました。私は、今の経営層のはしりが武士の役割だったと考えます。当時の武士は社会全体の中で経済を豊かにする役割をにない、武家社会の中で序列を重んじた動きが今の組織の基盤を作りました。当時の藩は自分たちの地域をより豊かにするために積極的に人材登用を行いました。結果的に組織や社会を運営しながら今の組織的な序列やヘッドハンティングのベースが出来上がったのです。
更にこの頃から商業都市が形成されはじめます。当時は雇い主の世帯に奉公人として住み込みで働き、仕事の仕方や慣例などを覚え、一人前になると独立するか支店の経営を任されるというスタイルが出来始めます。これらの流れは近代的なキャリアを形成するパターンの雇用の源流のように感じます。
(明治時代頃より組織的な仕事が定着しはじめる)
明治時代になり近代的な工業生産がひろまるにつれ江戸時代では栄えていた職人の仕事が脅かされる状況がやってきます。生産イノベーションにより職人の技の一つ一つが集約され熟年の技がなくても工場と機械によって細分化された工程が職人の持つ技や技能がなくとも製品の生産ができるように仕組みを作っていったのです。
職人になるには道具を自前で揃え、技能を高めるための修行が必要でした。そのため熟練した職人は仕事の仕方に自主的な裁量を持ち、組織に属する人とは異なった独特の振る舞いや行動を取りそれが独特な気質と雰囲気をつくり出します。当然、近代的な労働市場にはこの職人の態度や気質は相応しくなく、徐々に受け入れられなくなります。近代工業の組織社会では職人の裁量による行動は計画がしにくく、管理しが行いにくい。そのため管理者の指揮命令により仕事をこなす従業員が当たり前になり、職人気質の仕事の在り方が徐々に薄れていくのです。
もちろん規模を大きくせずに、昔ながらの中小企業ではその職人の技や器量は継承されていると思います。今となっては職人の技に大金を払う層も復活していますが、当時の大量生産大量消費のスピードに対応するためには工業製品を投入することをしないと成長する需要に対応できなかったのです。結果として自信の裁量で仕事をする職人や職人気質の仕事は薄れていったのです。
(高度成長時代は良かった)
1960年代、日本の高度成長とともに都市部に労働人口が流入する動きが加速されます。都市人口は当然に増加して規模が拡大します。人口の増加は様々なサービス業をうみ、人の胃袋も大きくなることから、農村部の役割も変わります。自給自足の生活から都市部に対しての食料供給を行う役割になるのです。ただし若者は60年代から継続的に都市部に流れ込んでいったので、結果的に農業人口の減少と高齢化をまねきました。
都市部での仕事のスタイルは商人、職人という自由なスタイルではなく工業化の進展とともに組織の中で働く雇用者中心に変わりました。企業は効率的に仕事を行い利益を稼ぐために、仕事を細分化して教育や能力レベルが低くても仕事の成果を出せる仕組みを開発します。結果、企業の指揮命令のもと、従属的な労働と主体性が乏しく、拘束的な労働のスタイルが定着していったのでしょう。
(30年間続く成熟社会が一変させた)
それでも経済が右肩あがりの時はどんなに辛い労働でもリターンが目に見える形であり、労働者は総じて明るかったと思います。それが1990年代後半の経済成長の頭打ちと共に変化しはじめます。環境破壊、資源浪費、労働過多等が社会問題になりはじめ、失業や雇用の不安、長時間労働からくるストレス、精神的な苦痛、職場環境のトラブルと都市部にはこれまで観察されなかった問題が多数頻発していきます。
若年層では、親世代が一生懸命に仕事をしても20年間何ら変化しない状況を見て、仕事することの意味が見いだせなくなりました。一心に仕事をしても父親や母親の小遣いは乏しく、ちょっとバイトをして小銭を稼いでバーチャルの世界で満足するほうが良い。極端ですが、そのような思想や考えも芽生えていったと思います。結果、若年層のフリーター、無職業者の急増を招き、生きる意味や働く意欲が低下する社会が徐々に形成されています。
今の経済規模を維持向上するための労働者が不足しています。一時期は外国人労働者を積極的に受け入れる策もありましたがコロナ渦でその方向性も不明瞭になっています。企業は定年次期を伸ばし、少しでも長く働いてもらえるように環境を整えています。国としても、老後の負担が軽減されるため、実は嬉しい作なのかも知れません。
一方で、仕事をしている身からすると、定年が伸びることに対して2つの考えがあると思います。1つは肯定的でできるだけ長く働きたい。もう一つはその逆で早々にリタイアして余生を楽しみたいです。では今の日本社会はどちらのマインドが強いのでしょうか。これは私の雑感ではありますが、前者が多いのではないでしょうか。なんだかんだ言って常に仕事をしてきて、時には言われたことをずっとすることで、自分のアイデンティティを担保できた方々も多いと思います。それがある日、年齢が65歳を過ぎただけで、仕事がなくなり社会との関わりが薄れる。と感じる人もいるのでは無いでしょうか。
(実はたっぷりある自由な時間)
定年を仮に65歳とすると100年人生では35年もの間、自由な時間を手にすることができます。それなのにその多大なる時間をどうしようと悩む人があまりにも多いと思います。お金の問題にフォーカスされがちですが、その時間とどのように向き合うかに不安を感じる方が更に多いのではないでしょうか。
生まれてから5歳頃までは完全に母親と父親の制約条件のもと時間を過ごします。6歳から15歳頃までは義務教育期間で自由時間はありますが、両親や学校の制限があります。16歳から18歳頃までは義務教育では無いとして進学を目指すには勉学が中心になり自分から何かを取組む時間がありません。就職や技能の習得を目指す人も、そもそものロールモデルが少ないため、なんとなく宙ぶらりんの時間を過ごします。18歳から20歳の前半は、仕事を始めた人にとっては色々と覚える期間があり余裕がありません。大学進学の場合は、実は最も豊かな時間ではないかとも思うのですが、その時間を自分の研究や勉学に充てる学生は日本にはかなり少なかったと思います。そして社会に出る。20代後半は仕事を覚えることに必死になり休みに余裕が出てくるのは入社して3年、5年頃でしょうか。人によってはその頃から結婚をして新たな生活を始め、生活とお金と仕事を両立しながら一生懸命生きていきます。子育てと過程と会社。充実した時間が60歳ころまで続きます。
もちろんこの間に、自分の趣味や家族との取り組みなどを深めることが出来た人は、老後を楽しみにしているでしょうが、どうもそのような方々がマイノリティだと思うのです。そんな中に35年というとてつもなく長い時間がやってくるのです。
(ライフワークに取組む)
仕事には対価を得るという役割はもちろん、その人が社会とつながっているという意味もあると思います。もちろんこれは専業主婦に対しても同様です。子供や生活を通じて社会とつながっています。それが定年を迎える頃は仕事を通じた社会のつながりも、家庭や子育てを通じた社会のつながりも、薄くなっていくと感じる人が多いのです。早く退職して余生を楽しむプランがある人は別ですが、なんとなくその時を考えずに不安を持って過ごす人は恐怖すら覚えるかもしれません。
そのため従来のライスワーク、つまり生計を立てるための仕事から、ライフワーク、つまり人生を更に楽しむためのワークを早い段階から見つけることが大切だと思います。ライフワークがライスワークになれば一番良いのでしょうが、なかなか好きなことでは食えないのが現実。ただ、老後の不安にお金の心配ばかりせず何とか食っていける見込みをつけて、自分が取り組みたいワークをしながら充実する生活を行えたら当たり前ですが、皆幸せです。そのための準備を今から行うのです。
当人に取って何がライフワークになるかわかりませんが、当人がこれだと思えば何でもライフワークにつながります。人から言われて行うでもなく、ワークの内容を他社と比較することもなく、自分の軸で自分の判断で自分のペースで取組む。そのようなライフワークがあれば、時間がどれだけあっても足りないでしょうし、何よりも生きることが楽しくなると思います。
20代から社会にでる方々は是非、自分のライフワークを探してみてください。それが何なのかわからなければ20代、30代で体力が許す限り、いろいろなことにチャレンジしてみてください。40代はその中のライフワークに身を傾ける行動をはじめてください。徐々に自分を認めできること、出来ないことがあって自然。今の自分の力量をみながら伸ばすこと、諦めること、頼ること、頼ってもらうこと。いろいろな視点で自分を見つめ直す。すると50代になる前頃より複数のライフワークに取り組みながら、徐々にリスすワークの量を減らすことができるのでは無いかと思っています。
そのためのリカレント教育。40代の私に取って今の仕事の延長上の知識や技能を習得することはもちろん、より今の人生を豊かにするための雑学や仕事に関連しない分野の知識がとても重要に思えています。何が正解かはわかりませんが一度きり、是非自分で切り開いて試行錯誤と実験を楽しんで行きましょう。
鍵があるところで探して見よう!
2021年2月9日
早嶋です。
街灯の下で鍵を探す男の話です。とある公園、夜中、街灯の下。男が何かを探しています。通りかかりの人が訪ねます。何をしているのか?と。男、鍵を探していると。気の毒に思い、一緒に探すことに。そしてしばらくして、どこらへんでなくしたの?と。すると、男は平然と暗いところで鍵をなくしたのだが暗くて見えないから街灯の下で探している。と話したのでした。
有名な寓話ですが、企業の中でも散見されます。とあるコールセンタ。本来は顧客からの問合せをベースに短期的にはクレームに対応し、コンプレインに感情対応する。長期的には、同じようなことが起きないように開発にフィードバックして商品そのものの仕様を見直す等に活用する。というのがセオリーでしょうが、コールセンター業務のマネジメントは数字で管理される余り、現場のマネジメントはおかしなKPIを設定します。電話を受けて切るまでの時間を短くすることでたくさんの数をさばけるからということで平均処理時間などがまさにそうです。明るいところで鍵を探す男と同じ発想ですが、盲目に仕事をしているとわからなくなるのでしょう。
若手社員や中堅社員の提言をブラッシュアップするワークショップを弊社では良く行います。対象とする企業はグループ会社で社会に大きなインパクトを与える企業です。若手や中堅社員は入社して7年から10年程度のまさに油がのった社員でバリバリ活躍する年代です。
が、提案が甘いのです。理由はいくつかありますが、1つは、与えられたバリューチェーンの一部を一生懸命にこなした結果の弊害です。「自分の仕事の上流工程や下流工程で何が起きているのか?」などを考えていないのです。常にマネジメントや先輩の具体的かつ的確な指示をこなすことを仕事と思い頑張ってきたので悪意は当然ありません。しかし次のステップにいくための大きな壁が視野を広げることなのです。ましてや企業や業界や業種、世の中がどのような状況になっているのかを自分の脳ミソを使って自分で考えていないため、「今の仕事に対しての課題や属している部門の課題、しいては企業や業界の課題とは?」と突っついても何もでてきません。すかすかです。普段の仕事をこなすことに精一杯で、数年でこなれて思考停止に陥っています。はじめから街灯の下で仕事を行い、暗い環境があることを知ってか知らまいか、井のなかの蛙よりも更に細分化したミクロの世界で生きていことに気づく必要があるのです。
2つ目は、なんとなく全てをよそ事、他人事として捉えている点です。たいてい提案が出来ない人は、「提案する、自分で考える前から何をしたら良いのか?」と答えを探します。当然、こちらとしては「知らんがな。」です。でも同様の経験が私にもあるのでよく理解できます。言われた内容をこなすことで評価されてきた人生の中で急に、「自由にしたいこと、新しいこと、何かの改善をして!」と言われても手が動きませんでした。私の場合は新入社員で配属された基礎研究所で、「テーマは自分で見つけて半年後に報告してね。」という洗礼を受けて脳死しています。ただその半年の間、はじめは意味がわかりませんでしたが徐々に自分でテーマを持って、「組織にインパクトを出すためにはどうすると良いのか?」と考えるようになりました。その中で最も役に立った質問は「自分だったらどうするか?」です。他の先輩研究者の研究を過去10年さかのぼり、その結果、今の事業や将来の事業にどのようなインパクトを出すのかを徹底的に洗い出しました。私が企業の立ち位置で、私が研究所のトップだったらどのような研究に最も予算を出したいかを考えるためでした。この経験は研究という分野ではNGでしたが、かっこ相手の立場になるとはすなわち自分ごととして捉えることだ。」と気づけたことでおおきな自分の糧になりました。もちろん研究者としては当時の仲間や上司や先輩のお荷物だったと思いましたが。。
3つ目は、大きな組織にいると営業やカスタマーサービスに属していても実際の顧客の使用状況や使徒を案外としらないと言うことです。マーケティングの顧客の発想はエンドユーザーではなく、自分の仕事を提供しているその人やその組織も対象です。つまり仕事の下流工程です。ここを顧客と捉え、顧客のニーズや分析をしなければ、自分の仕事の価値があるのか無いのかがわかりません。提供相手が価値を感じてくれれば自分の仕事の対価を得られるようになります。商売の基本的な発想はスタッフ部門でも営業でも同じです。自分の仕事が下流に渡った後に、どのように活用されているのかを理解することで、その方々の価値をさらに高めるアイデアが沸いてくるのです。そして提案する際の大きな過ちの一つに、自分にとって都合の良い提案になっていることが多いことも散見できます。提案は、あくまで相手に価値があり、相手のペインを解決し、更に提案者にとってもメリットが有る時に成立すると私は思います。そのために、自分の提案相手やその方々や組織の仕事を理解することがスタートで継続することが大切なのです。
4つ目は、インパクトです。提案は何でも良いのでやってね。ということを真に受けてはいけません。通常の企業であれば、やはりスケベ根性があります。そう、その提案によってどの程度のリターンがその部署や事業や会社にもたらされるかを期待しているのです。マーケティングでいう市場規模の推定が重要なのです。「困っている相手が、世の中一人だけなのか?」「同じようなことを思う方々が組織にどの程度いるのか?」「同じような現象が同業の組織の中でどの程度いるのか?」この発想を持つことが重要です。提案を掘り下げる前に、その提案を行うか、否かを判断できるからです。もちろん、規模が小さいからと言って、その時点では仮説に過ぎないのでリジェクトするのは早いと思うかも知れません。しかし、「提案を詰めた段階でどの程度の人が受け入れるか?」と考えて、意外としょぼいよね。とならないように予め考えておくという趣旨の話です。
そして最も驚くのが提案内容はいくつかあるのですが、最終的には時間的に楽なもの、できそうなものを選択する症候群です。まさに、鍵は暗いとこにあるのを知っていて、明るいところで探し始める発想に陥ってしまうのです。
英国と欧州
2021年2月3日
早嶋です。
2016年6月23日の国民投票におけるEU離脱の選択から4年以上の歳月をかけて、離脱協定に沿って2020年1月31日にEUを離脱しました。そして去年1年間に英国とEU間の協定や取り決め毎に対して交渉が行われました。昨年の12月24日に英国とEU間の通称協力協定に合意。2021年1月1日からその協定の暫定適用が開始されました。
英国とEU、いや欧州大陸は歴史を辿っていくと元々が違うんだと思います。なんというか少し島国である影響もあり、個人主義でどこか引いた感じを受けます。なんとなく壁を作る感じはどことなく日本的な雰囲気もします。米国を引き合いに出すと怒られるかもしれませんが英語の表現も米国と違ってストレートではありません。我々日本人と同じで根底は島国根性があるのでしょう。
欧州大陸と英国はドーバー海峡によって隔たりがあります。この海峡は難所で、過去何度も欧州大陸から英国に攻め込む国がありましたがことごとく失敗。まさにドーバー海峡は英国にとっての守護神なのです。そしてそのお陰で英国は大航海時代の後半より力をつけてきました。ポルトガルやスペインが植民地政策を行っても、欧州が戦場になれば艦隊を自国に呼び戻す必要がありました。戦力が不足するからです。しかし英国はドーバー海峡があったため欧州での争いがあっても英国に攻め入る国が結果的に少なかったのです。そのため欧州が戦いに明け暮れていた隙きを狙って植民地を増やすという行動を過去繰り返しています。また、英国は直接自分の手を動かさず、戦略的にパートナーを誰かと組み、他人の褌で相撲を取ることを得意としていました。
本稿では16世紀から17世紀、18世紀から19世紀、20世紀と順を追って英国の歴史と欧州の動きを見ていきます。事実関係はWikipediaを中心に調べていますが、ところどころ早嶋の解釈も入っています。事実とは違う分はご容赦下さい。
(16世紀から17世紀)
16世紀。日本は戦国時代から江戸の初期でしたが世界ではスペインがぶいぶい言わせていました。時の権力者、フェリペ2世はスペイン帝国の最盛期に君臨した王です。その治世は欧州、中南米、フィリピンに及ぶ大帝国を支配しており、地中海の覇権を巡りオスマン帝国をも退けて勢力を拡大します。そしてポルトガルも手に入れイベリア半島を統一し同時にポルトガルが有していた植民地も継承します。その繁栄は「太陽の沈まない国」として形容されるほどで、強みの無敵艦隊を率いて海も制していました。
そんなフェリペ2世はカトリックによる国家統合を理想に掲げます。一方当時のオランダはスペインの飛び地でした。オランダは宗教改革を行い新教カルヴァン派を国教として奉じる国になっていました。そのためカトリックに対する誹謗中傷がじわじわ始まり、やがてスペインの逆鱗に触れ結果的にスペインからフルボッコにされたのです。
その頃英国は、スペイン、オランダ、ポルトガルの交易船などを襲う海賊に支援をし、海賊行為によって得た金銭でひそかに富みを得ていました。更に、オランダに肩入れをすることでスペインの虚を突くことができると企んだのでしょう。また宗教の見地からも英国はカトリックを止めていて女王陛下を英国国教会のトップとした背景もあり、スペインに対して何か感じることがあったのかも知れません。
このような積み重なりがありフェリペ2世は英国(イングランド)に無敵艦隊を送り込むことを決めました。ロンドンに上陸してエリザベス女王を捉えて宗教裁判を起こす作戦でした。しかしスペインは英国に負けてしまうのです。英国はドーバー海峡を熟知しており無敵艦隊を海峡の狭いところにおびき寄せ圧勝しました。1588年、アルマダの海戦です。英国艦隊に敗北したスペイン無敵艦隊はスコットランドとアイルランドを迂回して帰国を目指しましたが運悪く悪天候により更に被害を蒙ります。結果約130隻あった艦隊が本国に帰国出来たのは半数の67隻だったと言われます。
スペインが衰えると次に台頭した欧州の国はフランスでした。この頃のフランスを率いたのはナポレオンです。彼はフランス革命の混乱を収拾し軍事独裁政権を樹立しました。フランス革命が起きた当時、周辺国も王国だったためフランス革命の動きが自分たちの国にも飛び火して革命と同じような動きになったら困ると誰もが思っていたことでしょう。そこに英国が乗っかって、一緒にフランスをやっつけようぜ!となったのです。
しかしナポレオンは包囲網を突破し、西はスペインから東はドイツ、そしてロシアまでをも支配する勢力を持ったのです。フランスはスペインに変わり欧州広域を統一する存在になったのです。もちろん英国は黙っていません。フランスにしかけます、1805年、トラファルガー海戦です。ナポレオン戦争における最大の海戦とされ、英国はこの海戦の勝利によりナポレオン一世の英国本土上陸の野望を阻止しました。ロンドンにあるトラファルガー広場はこの海戦から名前を得ており、広場にはネルソン提督の銅像があるのもそのためです。
ナポレオンはこの戦いの腹いせに英国経済封鎖を試みます。フランスの同盟国に対して英国との貿易を止めさせたのです。しかし英国に農産物を貿易していた国々は穀物が売れなくなり困り果てます。この影響により時のロシアでは大規模な反乱が起こりました。そしてこれが仇となりナポレオン帝国は徐々に崩壊へと向かっていったのです。皮肉なことに自分が蒔いた種によって終焉を迎えます。
決定打は1815年御ワーテルローの戦いです。この戦いでフランスは英国や当時のドイツとの同盟軍に大敗して、ナポレオンは南大西洋の孤島セントヘレナへ島送りされ、1821年にその生を終えました。英国は1840年にナポレオンの遺体をパリに返すことを認め、今でもその遺体はルイ14世が建てた廃兵院のドームに安置されています。
(18世紀から19世紀)
18世紀。農業生産の飛躍的な向上を成し遂げた農業革命に続き、世界初の工業化を達成した産業革命が英国ではじまります。英国が自分たちの生産能力を向上させた背景は植民地政策と奴隷貿易の影響が大きかったと思います。当時の英国は欧州の国々が争っている間にいろいろな国々を植民地にしていきました。ドーバー海峡のおかげで欧州の国々が英国に攻め入ることが難しく、余った戦力を世界の植民地にむけることができたのです。結果、アフリカ、中東、インド、マレー半島、オーストラリア、ニュージランドを次々に植民地にしていきました。
植民地は関税なしに英国で生産した商品を売る市場でしたので、作れば作るほど売れる。そのため生産性を飛躍的に向上させるインセンティブがあったのです。英国は当時、世界の工場と称されたのも有名ですね。英国に取っては植民地政策こそが繁栄の鍵だったのです。
そんな英国の驚異はロシアでした。ロシアの多くは氷に覆われているため常に南下政策を考えます。地中海、中東、アジアと貪欲に攻め込むロシア。当然、英国としては欧州大陸がロシアの手に入ることを恐れていたので、植民地に向けていた海軍の軍事資源をロシアとの戦いに向け始めます。直接的に戦いを仕向けない英国が相棒に選んだのはフランスでした。
1853年、ロシアは南下政策を積極化させてオスマン帝国に宣戦。英国とフランスはオスマン帝国を支援して戦争がはじまります。クリミア戦争です。結果、ロシアは敗北してパリ条約で講話、オスマン帝国の領土は保全されロシアのバルカン方面での南下は一旦抑制されました。
ロシアはインドにも向かいます。ロシアは既にイラン進出にて戦争を起こし、アフガニスタン方面にも勢力を伸ばそうとしていました。英国にとってインド植民地の権益を防衛する大義があったので英国はアフガニスタンに侵略してアフガン王国の制圧を目指しました。これがアフガン戦争です。
ロシアは中国にも南下政策を仕向けます。ロシアとしても不凍港を欲していたのが理由です。当時ロシアは上述したバルカン半島での南下政策を断念していたので進出の矛先を極東地域に向けることにしました。日本は近代国家の建設を急ぐとともにロシアに対しての安全保障上の理由から朝鮮半島を自国の勢力下に置こうと考えていました。朝鮮を属国としていた清との戦い(日清戦争)に勝利した日本ですが中国への進出を目論むロシアが邪魔だったのです。ロシアは露清密約を結び満州への進出を推し進めていました。そして英国はこの関係を観察しており日本と手を組むことで、結果的に日本がロシアと戦うように導いたのです。日露戦争です。
当時のこの戦いはグレート・ゲームと呼ばれました。中央アジアの覇権をめぐる英国とロシアの敵対関係や戦略的な抗争を指す言葉で両国の情報戦をチェスになぞらえてつけられました。グレート・ゲームは20世紀の冷戦構造と全く同じで典型的なランドパワーのロシアに対してシーパワーの英国は直接ロシアに攻め込むことなく、適宜同盟国と一緒になり間接的にロシアを封じ込めました。クリミア戦争、アフガン戦争、日露戦争。結果的にロシアは疲れはて混乱状態に陥ります。結果、萎縮したロシアが選択した1907年の英露協商で英国とロシアの互いの争いは終了しました。
(20世紀)
20世紀。新たな敵国が出現します。ドイツです。ドイツはロシアに変わる新たなランドパワーとして台頭し2つの世界大戦を引き起こします。当然英国は2回とも連合軍をつくり叩きのめしました。第二次世界大戦の時はヒトラーが群衆を率い欧州をほぼ占領します。その範囲はフランス、オランダ、ベルギー、デンマーク、ノルウェー、東ヨーロッパ、モスクワまでと、とても広域に攻め込みました。ドイツは陸軍主体の戦いが得意だったのでドーバー海峡を超えて英国に攻め込むことは苦戦していました。
それでもドイツは空軍を使って英国に攻め込みます。ロンドンは無差別空爆を受けますが、時の首相のチャーチルは絶対に屈しない姿勢を示します。ドイツは北フランスから飛行機を飛ばしたため、英国の北部まで攻め込むことができず、逆に英国は北部からダイレクトにドイツに飛ばした飛行機によってドイツを叩きのめすことができました。当時の飛行機は今ほど距離を稼ぐことができず、空の戦いでもドーバー海峡が英国に見方したのです。
ヒトラーは英国を諦め、代わりにロシアを攻め込みます。そこで英国はロシアと手を組みドイツを攻撃しようと考えました。この頃、あろうことか日本が勘違いして米国に戦争をしかけます。当時の米国は欧州での戦争をためらっていましたが日本が宣戦したことによって目覚めてしまったのです。そして英国、チャーチルすかさず米国を見方につけて、陰で日本と米国の戦争を操ることを目論んだのでしょう。
結局、ナチス・ドイツは崩壊して英国と手を組んだロシアが再び東欧とドイツに勢力を伸ばしていきます。ドイツは東側がロシア、西側を英国と米国が分断することになりました。米国はNATOを結成して独立した加盟国が外部からの攻撃に対応して相互防衛に合意することで集団防衛システムを構成します。対するロシアはワルシャワ条約を結びこの勢力に対抗しました。
当時の英国は完全に米国におんぶにだっこで本来は当時の大英帝国を復活したかったでしょうが戦疲れがあったのでしょう。その間に植民地が次々に独立していったのです。皮肉なことに、植民地の独立運動に火をつけたのは日本でした。日本が取った大東亜共栄圏の思想がフランス領や英国領だった国々を奮い立たせ、両国の植民地だった国々は次々に独立していきました。ロシアが東ヨーロッパの共産化を進めるなか、英国は悔しい思いをしたことでしょう。単独では何もできないと判断して米国と手を組みました。元々は同じ英語圏で、その昔は英国の植民地だった米国。なんとなく英国は下にみていましたが米国の助けなしに頑張れなかったのです。
そんな折、1956年にエジプトのナセル大統領がアスワン・ハイ・ダムの建設費財源を得るためにスエズ運河の国有化を発表しました。スエズ運河は1869年に営業開始、1875年に英国が買収し株主となっています。そのため株主である英国やフランスに多大なる富をもたらしていました。エジプト革命を成功させたナセル大統領は当初、アスワン・ハイ・ダムの費用援助を米国に求めましたがナセル大統領はロシア寄りの姿勢を取っていたため米国に断られたのです。結果、スエズ運河の国有化を思い付いたのでしょう。これがスエズ戦争です。
当初、英国は優位な展開をリードしていましたが、ロシアがエジプトを支援するという名目で軍事演習を開始します。本来ならば米国が手助けしても良かったのですが米国は助けませんでした。というのもロシアでスターリンが死去し米国とロシアの関係が良好になりつつあったからです。当時の米国大統領、アイゼンハワーもその関係を再び冷えた状況にしたくなかったのです。英国としてはNATOのメンバーなのに米国に助けてもらえない状況に苛立ちを覚えたと思います。
産業革命後、植民地あってこその英国。これはフランスも同じでした。自国で生産した製品が関税なしに自由に売れる市場が植民地だったので、経済を豊かにすることが可能でした。そのため英国もフランスも同じような仕組みを再び作れないかと考えました。そしてこれらが統一欧州の発想につながったのです。欧州全体を市場と捉えて自国の経済を発展させようと企んだのです。
フランスはドイツに対して二度と戦いたくないという思惑もあったと思います。歴史の中でフランスは何度もドイツに攻め込まれた嫌な記憶がありました。ドイツの怖さを十分に知っているのです。そのため英国よりも統一欧州に向けて先に動いたのはフランスでした。西ドイツとの和解というインセンティブが英国よりも高く行動が早かったのです。
欧州経済共同体(EEC)の当初の加盟国はフランス、ドイツ、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、ベルギーでした。英国は、これに対抗してEEC非加盟の英国、オーストリア、スウェーデン、スイス、デンマーク、ノルウェー、ポルトガルとともに欧州自由貿易連合(EFTA)を結成します。政治統合を目標とせずに、域内関税撤廃、EECと異なり共通関税の設定をしない連合体です。
どちらの組織も徐々に加盟国を増やしていきましたが、やはりフランスとドイツが手を組んだら最強でした。EFTAもスペイン、ポルトガル、スイス、北欧チームを集めて運営していきましたが上手くいかず、結果英国はプライドを捨ててフランスに仲間に入れてもらうこととなったのです。英国としては自国の経済状況の悪化には背に腹は変えられない常態だったのでしょう。工場がバタバタ倒産して、労働者がデモりまくり、リストラ反対の嵐。そして賃上げを望む労働者とストライキしまくる労働者でとにかく大混乱だったのです。国が荒れて英国病と揶揄された時代、英国としても不本意な時代だったと思います。
1973年、英国とデンマークが欧州共同体(EC)加盟に伴いEFTAを脱退。1986年、ポルトガルがEC加盟に伴いEFTAから脱退。その後アイルランド、ギリシャ、スペインも加盟して1986年には12カ国に拡大します。そして世の中は冷戦が終わり、東ドイツが民主化運動を起こしベルリンの壁が崩壊。ドイツという大国が再び誕生しました。本能的にドイツを恐れているフランスはドイツ復活を恐れたのでしょう。ドイツを取り込んで欧州全体を一つとすれば問題ないと考えました。今の欧州連合(EU)の始まりです。
ECは市場統合が目的でしたが、EUは経済分野に関して超国家的性格を持つ欧州共同体の枠組みが目的でした。共通の外交、安全保障政策、司法、内務協力という加盟国政府間の協力は画期的です。更に通貨の統合が進められ1998年に欧州中央銀行が発足、翌年から単一通貨ユーロが導入されました。
(ドイツの巧みな活動)
フランスはドイツを恐れてEUの制度を成立させましたが流石はドイツ。EUの枠組みを正当に活用して自国に利潤をもたらそうと考えます。まずは通過です。通貨がバラバラであれば富を得ている国、つまり利益を得ている国の通貨の価値が上昇します。そのため元来から米国や日本やスイスの通貨価値は高値をつけていました。
ドイツは元々ものづくりでも優等生でドイツマルクの価値も高かい状況でした。当然、他国と貿易をする際はドイツマルクの価値が上がっていたのでドイツ製品は他国に取って割高な商品になっていました。特にドイツ御三家のベンツ、BMW、アウディなどはドイツマルクの価値上昇も加わって他の車と比較しても超高級車として取引されました。ところがEUがユーロに統一することでマルクがなくなります。ユーロは仮想国家でドイツが優秀でも他の加盟国の信用はまだまだ高いとは言えません。そのためユーロの価値は相対的に上がりにく構造になっていました。
その結果、ドイツはドイツ製品をユーロで売ることで、加盟国の中では割安に見せることに成功しました。日本が円高で苦しんでいる時にもドイツはユーロ安でボロ儲けすることが出来たのでした。ドイツを恐れたEUの制度が逆にドイツを成長させるコントロールレバーになったのです。これはフランスにとっても予想外だったと思います。
ちなみにユーロにも中央銀行があり、所在地はドイツのフランクフルトです。各加盟国が出資して、その出資額に応じて発言権が強くなります。ドイツが最も出資額が多く実質ユーロはドイツが仕切っています。英国からするとここも不愉快だったことでしょうね。ただ英国はユーロの導入をしませんでした。自国通貨を手放せば通貨発行の権利を失います。多くの国々は景気が悪い時は自国通貨を刷りまくってごまかしています。もしユーロを使用するとなるといちいちドイツの許可が必要なり英国にとって不都合極まりなかったのでしょう。。
ドイツのメルケルは積極的に移民を受け入れる政策をとりました。表面的には移民に感情移入をし可愛そうだとしていましたが、経済的には移民の労働力を欲していました。当然、ドイツ国内の産業を下支えするためです。ただドイツも高齢化になりつつあり社会保障等の負担は日々大きくなります。そこでドイツは考えました。EU皆で移民を受け入れて対応しましょうと。そしてもし受け入れたくないならばその分お金を出しませんかと。
当然、移民からすると仕事があって賃金があって保障が充実するエリアにいきたいのでドイツや英国が専らいいねとなるのは自然です。SNSでこっちはこんな条件だぞ!とか言ってみんなが英国を目指し始めるのです。英国民からするとこれまで自分たちが将来のために払ってきたお金を、なんで移民に分配しなきゃいけないんだ!となって騒ぎ始めたのです。その時の首相がキャメロンで、メルケルとの交渉材料にと国民投票でEUに残留するか出ていくかを決めようと考えたのです。当時のキャメロンの思惑では五分が6対4くらいで残留が勝って、その内容をメルケルに突きつけて、あなたの要求は聞きませんよ!というシナリオを考えていたのでしょうが、ご承知の通り出ていく!という流れになっちゃったのです。そして国民の意思ということで英国政府は当然に無視できなくなります。その結果、離脱しますねとなったのです。
当時、その程度の理由で国民投票を行ったものですから、実際に英国がEUを出たらどうなるかなどのシミュレーションは殆ど行なわれていなく、出ることが決まった後に、マーケットはどうするかとか、関税がまたもどるぞとか様々な契約を見直す必要がでてくる、という感じで色々と不都合な事実がじゃかじゃか後出しジャンケンのようにでてきたのです。しかし後の祭りです。
その頃ドイツは英国は実は残りたいだろうと踏んでいました。そのことを逆手にとって英国から条件を引き出そうとあーだ、こーだ、様々な条件を英国に突きつけ、時には内政干渉と取れるようなこともしていました。なんとなくグチグチしていて英国からは嫌だなーとなっていたのでしょうね。結果、英国の保守党政権内でも離脱派と残留派が対立、EUとの条件闘争ももちろん決裂しました。最終的には保守党の離脱派、ボリス・ジョンソンが総選挙で圧勝してしまい正式離脱を表明したのです。
(ボリス・ジョンソン)
ボリス・ジョンソンは2015年の下院議員の前はロンドン市長を2期8年務めています。ニューヨーク生まれで米国と英国の二重国籍を持っており、前メイ政権の外相に起用された時点で米国籍を捨てています。ボリス・ジョンソンとキャメロンは名門パブリックスクールのイートン校からの盟友でしたがブレグジット国民投票では離脱派と残留派で戦うことになりました。ただ、両人ともEUから距離を置く伝統的な保守党のリーダーだったので本気で戦ったかどうかは不明です。
本稿でも示した英国病と形容された1970年代の長期経済低迷期、ボリス・ジョンソンとキャメロンはマーガレット・サッチャーの言動に影響を受けています。当時のサッチャーのスピーチに、次のような記録があります。「ソ連のように中央から仕切る国が今は権力分散が大事だと言っている。それなのに欧州共同体は逆行して権力を中央につけようとしている。フランスはフランスとして、スペインはスペインとして、英国は英国として独自の文化や習慣やアイデンティティを持ってるから強くなるんだ。」と。
また、二人はチャーチルの思想にも強く影響を受けていると言われています。第二次世界大戦前チャーチルのメッセージです。「英国は欧州と連携しているがその一員ではない。欧州とともにあるが、欧州は英国ではない。我々は欧州に関心を持ち、結合しているが欧州に組み込まれているわけではない。」と。
そしてボリス・ジョンソンはロンドン市長の時に「EUの目的は本質的にはアドルフ・ヒトラーと同じだ」とし、「英国はEUという超国家に取り込まれるべきではない、ユーロは生産力あるドイツに絶対的なアドバンテージを与え、その他ユーロ圏の国々はドイツに絶対勝てない仕組みになっている。」とユーロを批判していました。ボリス・ジョンソンとしてはようやく自分の考えを体現する活動が始まったのでてワクワクしているのでしょう。
(英国の分断)
国民投票の結果は興味深いものがあります。地域的に見て残留か独立かが明確なのです。スコットランドなど北部エリアは残留派が多く、イングランドは独立派が多いのです。スコットランドのウィスキーは欧州で売れていましたが関税がかかると高くて売れなくなります。英国のEU離脱によってスコットランドは英国から離脱してEUに戻る意向を示しています。
2020年12月末、ボリス・ジョンソンが示した挨拶の中で「手にした自由を最大限に活用するかは私たち次第」と強調し、「世界中と貿易協定を結ぶことができる」と、EU圏外の各国と独自に経済関係を強めていく姿勢をしめしていた時、スコットランドのスタージョン自治政府首相は完全離脱後から、「スコットランドは間もなく(EUに)戻る」「私たち自身が私たちの未来を担う時だ」と相次いでツイッターに投稿しています。
英国のEU離脱は北アイルランドにも大きく影響します。北アイルランドは元々はアイルランドで全体の25%程度が英国からの移民です、アイルランドが独立する際に英国の一部になっています。英国系はプロテスタントでアイルランド系はカトリックと宗教的な対立も揉め事の背景に隠れています。これらの解決策の1つとして国境を無くすことがあり平和が取り戻されました。しかし今回のEU離脱によって、再び国境が生まれると再び揉め事の原因になりかねないのです。
今後、ジョンソン政権は欧州以外にマーケットを求める動きを加速します。保守党はマーケットとして中国もみていましたが香港問題やウィルス問題で険悪になっています。米国に関しては協定を結んで関税をゼロの方向に調整しています。そしてTPP。太平洋周辺国の関税無しの協定です。見渡せばかつては英国の植民地だったエリアで、英国との相性も良く日本にとっても実質的な日英の貿易協定につながっていきます。
EUは中国と接近し、英国は日本に近づく。再びランドパワーとシーパワーの戦いが始まるのでしょうか。
参照:
Wikiペディア、日経新聞、ロイター通信、各国外務省Webサイト
地域活性化「33の行動計画」
2021年2月2日
原です。
私たちは、地域の「活性化」という言葉を聞いたり話しに出したりします。
しかし、地域の「活性化」とはいったい何を意味するのでしょうか。
この「活性化」という言葉は、「地域」という言葉と同様、決して明確に使用されているものではありません。
したがって、その内容を正確に定義的に捉えなければ、かえって地域経済や地域社会の衰退を引き起こすことにもなりかねません。
また、従来の主な地域活性化策と言えば、大型プロジェクトの誘致、企業の進出などがあります。
これは、空港や高速道路、港湾、工業団地のプロジェクト型の開発を図りながら企業を誘致して雇用を創出するという考え方からです。
一方、産業構造の転換や経済のグローバル化のなかで、企業が撤退あるいは規模を縮小し、多くの地域が社会の衰退や持続可能性の危機に悩んでいます。
現代の地域活性化には、地域住人と地域自治体が自ら主体的に地域を創り出していくことが必要です。地域発展の視点に立ち、これまでの地域活性化策を見直すことが必要です。
ここで、私が体感した「地域活性化」と言えるエピソードを書きます。
私の出身地は、大分県です。大分県内で日本の有名観光地に成長した地域に湯布院町があります。今は、平成の合併により由布市湯布院町です。
昔は、鄙びた温泉地で別府温泉の奥別府とも言われたぐらい知名度は低かったです。
しかし、中谷健太郎さんと溝口薫平さんの2人の地域リーダーを中心に、南ドイツの視察やユニークなまちづくりを企画実行し、コロナ禍を除いた近年では年間400万人近くの観光客を集める日本でトップクラスの人気観光地になっています。
また、湯布院町には、地域ビジョン「33の行動計画」があります。
このビジョンは、湯布院町の地域経済団体が作成し提言。その後、コミュニティマート構想モデル事業、商店街活性化に取り組むなど町の総合計画の素案資料になりました。
以前、私は大分県内の地域経済団体で働いていましたが、当時の湯布院町の会長は溝口薫平さんでした。
地域懇談会で初めて溝口会長にお会いした時には、ドキドキしながら「湯布院では33の行動計画を作成されているのですよね?今でも活用されているのですか?」と質問したところ、「今でも活用しているよ」。さらに、「33の行動計画を見てみたいです」とお願いしたところ、「良いですよ、いつでも見に来なさい。」と答えて頂いたことを覚えています。
このオープンかつ穏やかな回答の仕方には、地域づくりを実践し多くの課題解決を乗り越えてきた地域リーダーとしての人間力の大きさを感じたことを今でも覚えています。
多くの地域や組織が多様な地域に視察へ行きますが、果たして視察から学んだことを実行しているでしょうか。ただの観光旅行で終わっているのではないでしょうか。
一方、溝口さんらは、当時としては命がけで南ドイツ・バーデンヴァイラーを視察し個性のある温泉地づくりを学び、個性のある湯布院づくりを実行しています。
また、多くの地域や組織は景観を壊してまでの公共工事に取り組んでいないでしょうか。
一方、溝口さんらは、悪用目的に農地買収する人への対抗手段を考え、景観が壊れないようにと地主に売買しないでくれと説得に回ったこと。地域づくりのために数え切れない程のアイデアや行動を繰り返しています。
このように、地域のビジョンと行動計画を地域経済団体自らが主体的に策定し提言し、計画を絵に書いた餅に終わらせることなく自治体や地域住民を巻き込みながら実行を継続していることが、「地域発展の視点に立った地域活性化」と言えるのはないでしょうか。それが、地域活性化の定義と言えるのではないでしょうか。
コンフリクト・マネジメント
2021年2月2日
安藤です。
ダイバーシティ―・複雑化する働き方の時代、異なる立場や意見の人々に配慮し、どのようにうまくやっていくべきか、今、注目されているのが「コンフリクト・マネジメント」です。また、パワハラ,社員の離職防止などもコンフリクトの状況をいかに読み解き、権力、感情、変化を理解して自分や組織の活性化していくべきかその点が要となっています。心理的安全性の視点でも同様です。更に、EQ(感情知数)の視点では、管理者、リーダーに求められるのは状況を読む解くスキルにあたります。
コンフリクト・マネジメントは、ロジックではなく感情の持ち方が大事という視点で、自分のパワーの考え方や能力を伸ばす方法を学ぶことで、職場のコンフリクトの場で活かせます。
コンフリクト・マネジメントの知識が組織で有益な点としては、①~④などが挙げられています。
①コンフリクトの建設的な交渉は組織内のリーダーシップ、意思決定、リソース、リスク管理の質を改善する。(オンブズマン)
②より強固な人間関係、チームワークを築くことで、会社の利益に貢献する。
③職場での理不尽な使われ方に我慢をする習慣を取り除き、職場でのコンフリクトに対処するための適応力
(コンフリクト・マネジメント)を学ぶことにより、当事者の対応力、関係性問題解決力を育成しより健康的、透明性のある職場環境をつくれる
④職場のコンフリクトが不満や燃え尽き症候群、うつ病、自殺などに進展することを妨げるロジックではなく感情の持ち方が大事という視点で、自分のパワーの考え方や能力を伸ばす方法を学ぶことで、職場のコンフリクトの場で活かす
コンフリクトに対して知性ある行動をしていると判断するにはどうしたらよいのかという視点で、6つの基準があります。①マインドフルネスを実践する ②戦略的であること ③感情を認識すること ④状況変化に対応すること ⑤時を意識すること ⑥規範的であることです。そして、コンフリクト・インテリジェンスを高め、
コンフリクトが良い結果をもたらすための行動基準には3つ(Aコンフリクトの状況、Bコンフリクト・マインドセット、Cコンフリクト・インテリジェンスに基づく戦略で実施されています。
具体的項目Aは、①感情ある責任 ②指令・監督 ③協調的依存 ④不幸な忍耐 ⑤独立 ⑥パートナシップ
⑦敵陣、 Bは ①仁愛 ②支配 ③サポート ④譲歩 ⑤自立 ⑥協調 ⑦競合 Cは ①現実的な仁愛
②建設的支配 ③賢明なサポート ④戦略的譲歩 ⑤選択的自立 ⑥協働 ⑦3Fに基づく競合です。
*3Fとは、公平(Fair)・ゆるぎない(Firm)、有効(Friendly)に基づいた競合を意味します。
状況をいかに読み解き、権力・感情・変化を理解して、自分や組織を活性化していくためのこれから必要な
マネジメントスキル“コンフリクト・マネジメント”をご案内しました。
人的資源開発, キャリアドッグ,EAP,心理学を活用したコミュニケーション,EQ,メンタルヘルス等に ご興味・ご関心がある方は気軽に弊社にご相談くださいませ。
オンライン営業のポイント
2021年2月1日
高橋です。
私がコンサルティングをしている『営業プロセス研修』のエッセンスを、数回に分けてお伝えしています。
今回は「オンライン営業のポイント」というテーマでお届けします。
昨今のコロナ禍において、営業パーソンの仕事の仕方も変化せざるを得ない状況です。在宅リモートでの業務が増え、これまではお客様の所に出向いて対面でお話しさせていただいていたところが、対面禁止になり「オンラインでお願いします」と言われることもあるかと思います。
すでに切り替えてオンラインで成果をあげておられる方もたくさんいらっしゃることでしょう。私の前職の生命保険会社でも、早々にオンライン営業に切り替え成果をあげている営業パーソンがいるようです。(以前は会社からあれだけお客様に会いに行くように言われていたものが、今はできるだけオンラインと郵送で対応するようにと指示されているようです)
一方で「オンラインで契約がとれるわけがない」「会いに行かないなんてお客様に失礼だ」「やり方が分からず億劫だ」といった声も聞こえてきます。
オンライン営業のメリットとデメリットを整理してみましょう。メリットとしては、時間とコストの節約です。移動、場所、距離を気にする必要がありませんので、商談の回数が増えたり、遠方のお客様と商談することができます。デメリットは、営業お客様双方に環境面の整備が必要です。ネット環境やパソコンが揃っていないお客様とはオンライン営業ができません。その上で、オンラインだと実際にお会いするより伝わりにくい、人間関係構築しにくいなどデメリットと感じる方が多いようです。
ではどのように対処するのか、今回はポイントを絞って2点ご紹介します。
まず1点目は全般的な事ですが、オンライン商談の時間は対面商談より短く区切るべきです。
小さな画面を見続けるのは疲れるものですし、お客様の集中力も対面の時ほど続きません。その上、オンライン商談では営業パーソンが一方的に話す時間が続きがちで、そうなるとお客様も飽きてこられます。
オンライン商談は30分ほどがいいでしょう。短いと感じられるかもしれませんが、オンラインの特徴を活かして時間の長さより回数を重ねる商談の方が効果的です。ザイオンス効果と言って何度も繰り返して接触することにより、好感度や評価等が高まっていくという人間の心理があります。短いCMを何度も流すあれですね。
よって、短時間で効率よく商談する工夫をしたほうが、間延びせずお客様に伝わります。
2点目はオンラインで名刺交換もしたことのない方と人間関係を構築する方法です。
オンライン商談だといきなり本題に入ろうとする方がおられますが、やはり対面の時と同じように最初は雑談(時節の話題やあいさつ)や自己紹介から始めるべきです。せめて2分ぐらいは頑張って時間をかけましょう、実際オンラインの雑談で2分はけっこう長く感じるものですが。
その際、こちらのプロフィールは事前にお送りしておく、お客様のことは事前に情報収集しておくことが肝要です。対面の時と同じようにお客様に興味を持つことが会話を活性化させます。同じくこちら(営業パーソン)にも興味を持っていただけるような自己紹介を工夫しましょう。
そして、表情や反応、手振りを通常の1.5倍を心掛けることです。オンラインではなかなか伝わりにくい感情も少し大げさに「そうなんですか!」と驚いたり、「それはうれしかったですね!」と共感することでお客様に伝わり、つられてお客様も笑ったり驚いたりしてくださいます。そうやって打ち解けていき関係構築します。
心理学用語でミラーリングと言って「鏡の法則」とも言いますが、こちらが笑えば相手も同じように笑ってくれます。こちらが声を張ると相手もつられて声のトーンをあげてくれます。そのようにオンライン営業を盛り上げ、人間関係を構築していきます。
今回はオンライン営業のポイントを2点に絞ってご紹介しました。今後自社の営業にオンラインを活かしていきたいとお考えの経営者・経営幹部・リーダー・士業の方はお気軽に弊社にご相談ください。
孫武が生きていたら今頃は
2021年1月20日
早嶋です。
2度目の緊急事態宣言。多くの方が感じているように、はじめてのときと感じが違います。この約1年間に準備をして対策を講じ、状況が悪くなる中、自分たちがくたばらないように備えていた方にとっては、まさにそんな感じだと思います。だからと言って、ハッピーでルンルンとは当然言えません。しかし、後1年位でワクチンが普及し来年の初め頃より状況が戻るでしょう。そのときに備えて今は体力の温存とその瞬間に資本を突っ込めるように準備を続けています。
一方で、昨年のデジャブのように同じことを繰り返している企業も散見できます。国は医師が足りない、病床が不足していると。確かに努力はしていると思いますが、根本的に専門の部隊をつくり、医療経験者を自衛隊等の感染症専門部隊の力を借りて訓練して、対応できる仕組みを作るあるいは準備をする。重傷者へのエクモなどのハード投資とエリアの計画をすすめる等々。でも現実は、なんだかあんまり変わらない1年が過ぎています。1年経過して業界によっては売上が8割蒸発していますので対応が相当に大変だと思いますが、業界平均では3割の減少です。期間を予測し覚悟を決めれば、このギャップは1年あれば体制を整え派手に勝てはしませんが、絶対に負けない仕組みを作ることは出来るでしょう。
今からおよそ2,500年前、春秋戦国時代、当時の周王朝の衰退をチャンスと捉えた王様達が、土地や人民、そして命の取り合いを続けました。その間500年、戦国の世を繰り返します。そしてリードを勝ち得たのが秦の始皇帝です。そんな時代に編み出された戦法に孫子の兵法がありました。孫武という戦わずして勝つという言葉が有名な方が整理した戦法です。
戦争について語られた本ですので、今の経営や人生哲学に直接的に影響を与えるものではないですが、その話の中の例えや事例、考え方は多くの部分で参考になります。孫子の考え方の究極は、勝利を得てから戦いを始めることが大事で、多くは負けてから戦いを始めると言います。
スリーカードポーカーを時々子供と一緒に遊びます。勝負するポイントは負けないことです。ルールの説明は省きますが、自分が勝ちそうに無いときは早めに降りて、とにかく負けないようにします。ゲームをしているとどうしても勝利を意識して良いカードが来るかもしれないと期待しますが、スリーカードポーカーでは、そのような期待を捨て、潔く勝負を降りることで負けないようにすることで、誰かが負けるのです。そして結果的に自分たちが生き残る。
戦わずして勝のポイントは、そのように負けない状態をつくり、ここぞというチャンスが来た時に一気に攻勢できる体制を得ておくことです。通常の勝負事において、力関係がどっこいどっこいの場合、大抵は相手のミスが因果で勝敗が決まります。ライバルの隙をついて形勢逆転というパターンです。そのために勝因よりも敗因にフォーカスして自分たちが原因で負けた部分を徹底解析して、次は負けないように日頃から準備をするのです。
去年の今頃、中国武漢で始まったcovit19に対して対岸の火事程度で見ていたのが1月とか2月。春節を過ぎた頃からヤバイと思い始めました。そして3月にはビジネスモデルを変えようと心に決め既に動いていました。だからといって一気に逆転ということは無いですが、少なくとも数年は死なない、つまり潰れない体制をつくることに徹しました。そして1年間、事業モデルを変え、習慣を変え、出来なかったことも諦めて手を動かして自分達や仲間と一緒に戦えるようにひたむきに取り組みます。8月、9月。世の中の気が緩んでいるときも決して歩みを止めず、とにかく負けない体制を構築しました。
緊急事態宣言2回目。派手さはありませんが、その準備がボディーブローのように効いています。未だその次期はきていませんが、相手や業界が疲弊するタイミングが来れば一気に攻め込む準備も整えています。孫子は状況を分析して戦いの次期を見極めろと言います。自分たちのリソースの使い方も状況に応じて選択肢を持つことが大切だといいます。だからといって、組織全体の志や目的、取り組みは歩調を合わせ、準備を怠らないで日々を過ごす。これらが負けない組織の作り方だと。
経験の無いものは、強いものが、あるいは普通に見える人が、まさかそのような訓練や経験値を持っているなんて創造もしません。出来る人や結果を出す人の努力は目に見えないからです。戦でも然りで、負けないためには、相手を欺くことを推奨します。ハッタリをかますのではなく、意図を読まれないように取組むのです。もちろん、我々は敵がいるわけではなく、いるとしたら自分たちの慢心でしょう。派手さは無くとも自分たちが信じた大義を果たすために自由に取り組める時間とお金を手にしながらも着実にすすめていく。
この1年、同じような感覚で取組む組織は次の10年は死なないでしょうね。
最新記事の投稿
カテゴリー
リンク
RSS
アーカイブ
- 2025年1月
- 2024年12月
- 2024年11月
- 2024年10月
- 2024年9月
- 2024年8月
- 2024年7月
- 2024年6月
- 2024年5月
- 2024年4月
- 2024年3月
- 2024年2月
- 2024年1月
- 2023年12月
- 2023年11月
- 2023年10月
- 2023年9月
- 2023年8月
- 2023年7月
- 2023年6月
- 2023年5月
- 2023年4月
- 2023年3月
- 2023年2月
- 2023年1月
- 2022年12月
- 2022年11月
- 2022年10月
- 2022年9月
- 2022年8月
- 2022年7月
- 2022年6月
- 2022年5月
- 2022年4月
- 2022年3月
- 2022年2月
- 2022年1月
- 2021年12月
- 2021年11月
- 2021年10月
- 2021年9月
- 2021年8月
- 2021年7月
- 2021年6月
- 2021年5月
- 2021年4月
- 2021年3月
- 2021年2月
- 2021年1月
- 2020年12月
- 2020年11月
- 2020年10月
- 2020年9月
- 2020年8月
- 2020年7月
- 2020年6月
- 2020年5月
- 2020年4月
- 2020年3月
- 2020年2月
- 2020年1月
- 2019年12月
- 2019年11月
- 2019年10月
- 2019年9月
- 2019年8月
- 2019年7月
- 2019年6月
- 2019年5月
- 2019年4月
- 2019年3月
- 2019年2月
- 2019年1月
- 2018年12月
- 2018年11月
- 2018年10月
- 2018年9月
- 2018年8月
- 2018年7月
- 2018年6月
- 2018年5月
- 2018年4月
- 2018年3月
- 2018年2月
- 2018年1月
- 2017年12月
- 2017年11月
- 2017年10月
- 2017年9月
- 2017年8月
- 2017年7月
- 2017年6月
- 2017年5月
- 2017年4月
- 2017年3月
- 2017年2月
- 2017年1月
- 2016年12月
- 2016年11月
- 2016年10月
- 2016年9月
- 2016年8月
- 2016年7月
- 2016年6月
- 2016年5月
- 2016年4月
- 2016年3月
- 2016年2月
- 2016年1月
- 2015年12月
- 2015年11月
- 2015年10月
- 2015年9月
- 2015年8月
- 2015年7月
- 2015年6月
- 2015年5月
- 2015年4月
- 2015年3月
- 2015年2月
- 2015年1月
- 2014年12月
- 2014年11月
- 2014年10月
- 2014年9月
- 2014年8月
- 2014年7月
- 2014年6月
- 2014年5月
- 2014年4月
- 2014年3月
- 2014年2月
- 2014年1月
- 2013年12月
- 2013年11月
- 2013年10月
- 2013年9月
- 2013年8月
- 2013年7月
- 2013年6月
- 2013年5月
- 2013年4月
- 2013年3月
- 2013年2月
- 2013年1月
- 2012年12月
- 2012年11月
- 2012年10月
- 2012年9月
- 2012年8月
- 2012年7月
- 2012年6月
- 2012年5月
- 2012年4月
- 2012年3月
- 2012年2月
- 2012年1月
- 2011年12月
- 2011年11月
- 2011年10月
- 2011年9月
- 2011年8月
- 2011年7月
- 2011年6月
- 2011年5月
- 2011年4月
- 2011年3月
- 2011年2月
- 2011年1月
- 2010年12月
- 2010年11月
- 2010年10月
- 2010年9月
- 2010年8月
- 2010年7月
- 2010年6月
- 2010年5月
- 2010年4月
- 2010年3月
- 2010年2月
- 2010年1月
- 2009年12月
- 2009年11月
- 2009年10月
- 2009年9月
- 2009年8月
- 2009年7月
- 2009年6月
- 2009年5月
- 2009年4月
- 2009年3月
- 2009年2月
- 2009年1月
- 2008年12月
- 2008年11月
- 2008年10月
- 2008年9月
- 2008年8月
- 2008年7月
- 2008年6月
- 2008年5月
- 2008年4月
- 2008年3月
- 2008年2月
- 2008年1月
- 2007年12月
- 2007年11月
- 2007年10月
- 2007年9月
- 2007年8月
- 2007年7月
- 2007年6月
- 2007年5月
- 2007年4月
- 2007年3月
- 2007年2月
- 2007年1月
- 2006年12月
- 2006年11月
- 2006年10月
- 2006年9月
- 2006年8月
- 2006年7月
- 2006年6月
- 2006年5月
- 2006年4月
- 2006年3月
- 2006年2月
- 2006年1月
- 2005年12月
- 2005年11月
- 2005年10月
- 2005年9月
- 2005年8月
- 2005年7月
- 2005年6月
- 2005年5月
- 2005年4月