早嶋です。約3000字です。
2025年4月、日本のガソリン小売価格は1リットル186円に達している。世の中はGWの最中だが、スタンドの表示価格はハイオクであれば200円も間近だ。やはり「高い」と感じることだろう。ところで、本当にガソリン価格は異常に高いのだろうか。少しファクトを含めて調べてみた。結論はガソリン価格は、世の中比較では相応か、寧ろ安く、問うべきは税金に関する議論だった。
ファクトチェックをした。2015年、日本のガソリン小売価格は平均で約130円だ。このとき、WTI原油価格は約50ドル。ドル円レートは約120円。1バレルあたりの円換算価格はおよそ6000円になる。そして、2025年現在。ガソリン小売価格は約185円。WTI原油価格は63ドル。ドル円レートは150円なので円建て原油価格は約9450円となる。
つまり10年間で、ガソリン価格は約1.4倍に上昇しているが、原油の円建てコストは約1.6倍に上昇している。ここからガソリン価格の上昇は、原油コストの上昇幅よりも小さいということが分かる。そのため、「ガソリンが高い」という直感は、正しくないとも言えるのだ。
そこでガソリン価格の内訳を因数分解した。店頭価格の42%以上が税金だ。ガソリン税として、本則28.7円、暫定25.1円、合計53.8円が課される。そして、地方揮発油税が5.2円。さらに、石油石炭税・地球温暖化対策税が合わせて2.8円。極めつけは、それらを合算した金額に対して消費税10%が更に乗るのだ。その結果、ガソリン1リットルあたり、約78.7円が純粋な税金として組み込まれている。
ちなみに、ガソリン税には本則と暫定がある。本則税率の28.7円は、もともと道路整備を目的として1954年に導入されている。戦後の日本には、国土開発、高度成長期のインフラ整備等を支える財源に作られたものだ。ガソリンを使う車が主に、利用者負担で道路を作り、今でもメンテナンスに充てる発送は理屈にかなっていると思う。
しかし、暫定は意味不だ。本来は1974年のオイルショック後の財政危機対策として。時限的に上乗せした税金だ。当時の理由は、燃料消費が減ると道路財源が減る。それを補うために税率を臨時で上げるというものだった。そこで5年間の時限措置が取られたのだ。が、政府は5年毎に延長を繰り返す。そして事実上、恒久税化したのだ。実際、2008年の福田内閣の時に、暫定と言いながら半永久的な税とする法改正が行われているのだ。
日本の直近のガソリン年間消費量は約446億リットルだ。これにより生まれる税収は、
– ガソリン税だけで約2兆4000億円、
– 地方揮発油税で約2300億円、
– 石油石炭税・温暖化対策税で約1250億円、
– さらに消費税で約7500億円程度、
となり、合計すると4.5兆円以上が、ガソリン関連だけで国と地方に流れ込むことになる。国の大きな収入の柱とも言ってよい額だ。(2024年のガソリン税による税収は、国税で約1.5兆、地方税で約5千億となっていた。若干、からくりが不明だが大きな単位はあっているので、ここの理論はこれ以上詰めないでおく)
財務省の建前は、健全な国家財政運営だ。しかし、税収を最大化し、国家支配を維持することのように振る舞っているように感じる。同様に、経済産業省の建前は、産業振興と国民経済の発展だ。しかし現実は、特定産業との関係強化を通じて自らの存在意義を確保をしているかのようだ。燃料油価格激変緩和措置にしても、国民に寄り添う顔をしながら、元売り企業に補助金を与え、その間に行政と産業が利益を確保する構造にみえる。
なぜ、税を下げる選択肢をしないのか不思議だ。確かに、財務省は税収を減らしたくないだろう。そして、経産省は補助金配分の仕組みを手放したくないと思う。更に、地方自治体も地方税収を失いたくないし、元売り企業も補助金で価格維持できるから反対しないと思ってしまう。誰一人として、国民負担を本気で減らそうとはしていない。この事実に、私たちはまず気づかなければならないのだ。
このような状況に対しての合理的な打開策は、財務省の絶対的な予算支配の縮小し、経産省と大企業のつながりの解消(つまり自由化や既得権益の剥奪、そして規制緩和だ)、地方自治体が自律的に動き始め、国民が自分たちで社会を作る主体に戻ることだ。税金は明確な対価として支払われるようになり、補助金での誤魔化しを終えることだ。中央集権ではなく、分散型で自立した社会に生まれ変えることだ。まぁ、とても日本のしくみを考えたとて難しシナリオだが、希望を持てるシナリオだと思う。
しかし、現実は財務省は増税に動き、経済産業省はその財源を元にばら撒きに動き、政治も社会も、本気で「仕組みのスリム化」に取り組まないのだ。理由はなんだろうか?
1つは、官僚組織そのものに縮小するインセンティブが無いことだ。財務省も経産省も、自分たちの組織が大きく、予算が多く、権限が強いほど、将来のポストが増え、人事権が強くなり、天下り先が確保できると思うかもしれない。これが組織の生存本能というものだ。組織にとっては、「合理化=組織の弱体化」になるのだ。だから、合理化を自分からは絶対にやろうとしない。仮にやるときも、ポーズに留まるのは歴史から学んでいる。官僚にとって、国家予算とは国民のために使うものではなく、自分たちの支配力を拡大するために使うものになってしまうのかもしれない。
更には、政治家は本気で仕組みを破壊する気持ちが無いとおもう。本来、官僚を制御するのは政治家の仕事だ。しかし、日本は政治家も選挙に勝つために予算ばらまきを求めるし、官僚に政策立案を依存しているし、逆に官僚組織に取り込まれているという絵も確認できる。特に地方では、国の補助金がないと自治体が回らないため、中央からの財源確保を訴える政治家が重宝されるのだ。結果、政治家自身も、国民に痛みを強いる「合理的改革」には及び腰になり、票を失うリスクを避けて現状維持を選ぶのだ。
そして、極めつけは我々国民自体も痛みを伴う改革を望んでいないのだ。ここが最も根深くて、仕組みのスリム化は、今受け取っている補助金やサービスが減るかもしれない、公務員の数が減るかもしれない、地域の利便性が一時的に下がるかもしれない、ということを想起する。そのため痛みを受け入れう覚悟が後手に回ってしまうのだ。皆誰しも、今の生活水準を下げたくない、目先の安心を失いたくない、他人の権利は削っても、自分の権利は守りたい、という心理が働いているのだ。結局、国民自身が「痛みなき改革」を求めた結果、政治も官僚も、スリム化を真剣に進めないとなっている。
そう、現実は過酷なのだ。財務省の増税は常態化するだろう。経産省は補助金と規制で結果的に既得権益を守り続けると思う。そして地方は2極化し多くは衰退するだろう。若者は未来を失い、社会は静かに沈んでいく。実際、その動きは表面的な秩序を保ちながら、本質的にはゆっくりと沈む船のようになるのだ。
新規事業の本質と構造は同じだ。重要だけど直ぐに結果がでない。やり方が分からない。これまでのぬくぬく生活を捨て、気合を入れて取組む必要がある。その結果、一部の人は頑張るが、それでも1年、2年で状況が変わり、トップが変わり、熱が冷めてしまう。するとズブズブと過去の遺産でごはんを食べていたほうが今は楽なので手を付けなくなるのだ。
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