早嶋です。5200文字です。
ユヴァル・ノア・ハラリの著書、「NEXUS」を読んだ。これまでの著書、「サピエンス全史」「ホモ・デウス」「21 lessons」を私の解釈で整理した。
「NEXUS」は、情報の本質と人間のつながりを整理した内容だ。人間は、今、膨大な量と種類の「情報」に囲まれ生きている。かつて人間は、見たこと・聞いたこと・触れたことのある範囲の中で世界を理解していた。しかし、技術が進化し、AIが情報を生成する時代に突入した今、人間は自らの目で全てを確かめることも、正しさを保証することも困難な状況に陥っている。
ハラリのこれまでの著書と、今回の「NEXUS」を読んで、私なりに人間がどのようにして情報とつながり、どのようにして虚構と現実を切り分けてきたのか、そしてこれからの時代において人間はどのように情報と向き合っていくべきかを整理する。虚構を信じて発展してきた人間は、AIとともにどこへ向かうのか。そのヒントを、ハラリの「ネクサス=つながり」は紐解いている。
(情報は「事実」ではなく、「解釈」である)
人間は日々、膨大な「情報」に囲まれて生きている。しかし、その情報の本質は何かと問われると、多くの人が「事実」や「真実」と混同する。だが本来、情報とは「誰かがある出来事や状況をどう見たか」という解釈にすぎない。
たとえば、「今日、雨が降った」という一文も、それが「どれくらいの雨だったのか」「いつ、どこで」「誰にとって都合が悪かったのか」などによって、まったく違う意味を持つ。同じ出来事でも、伝える人や受け取る人の視点によって「情報の意味」は変わるのだ。
このような情報の相対性は、インターネットやSNSの登場によって加速した。個人がメディア化し、情報が個人から個人へ、瞬時に拡散されるようになり、もはや「正しいこと」よりも、「共感できること」や情報の受け手が「聞きたいこと」「知りたいこと」が求められるようになり、真実の境目が薄れていった。
たとえば、SNSでバズる投稿の多くは、専門的な正確性よりも、「ウケること」や「共感されること」に重点が置かれている。「これってあるあるだよね」「その気持ち、わかる」と感じる情報こそが拡散され、多くの人の目に触れる。そこには事実の厳密さよりも、感情の共有が根底にある。
たとえば、選挙演説でも、政策の中身より「わかりやすい言葉」や「敵をつくって味方を鼓舞する構図」が好まれる。そのような情報を拡散したほうが、同じような共感する人間に知れ渡ることを政治家が理解しているのだ。そのため、正しいかどうかではなく、納得できるか、心が動かされるか、が重視されている。
つまり、現代において情報とは、「人と人とをつなぐための道具」として機能しているのだ。「これってわかる」「自分もそう思う」という感情の共有や、仲間との共鳴を生み出すこと。それが、情報の最も大きな役割になってきた。もはや情報の正確性や真偽よりも、「どれだけ人とつながれるか」「どれだけ共感を呼べるか」が重視される時代なのだ。
(小集団から広域社会へ:理解の限界と統治の発明)
人類の歴史の大半において、私たちは小さな集団の中で暮らしてきた。顔が見える距離にいて、日々の生活や経験を共有し、誰かが話す内容は他の人も体験していた。だから、情報の内容に対して全員がある程度の共通理解を持ち、対話や合意が成立していた。
しかし、農耕の拡大、人口の増加、都市の誕生によって、集団の規模が飛躍的に大きくなると、全員がすべての事象を体験することが不可能になる。地理的に離れた場所で起きていることや、専門性の高い事象について、共有された経験を前提とした対話はできなくなったのだ。
この時、人間はある課題に直面する。「自分が理解していない情報について、どうやって意思決定に関わるのか」という問題だ。ここから、人類は統治の形を発明する。ひとつが民主主義であり、もうひとつが全体主義だ。
民主主義は、個々の自由を尊重しつつ、重要な意思決定を「話し合い=合議」によって行う。しかし、合議の前提には「合議する参加者の議題に対する一定の理解」が必要である。情報の複雑性が高まり、誰もが内容を深く理解することが難しくなると、投票や選挙の判断は「正しさ」ではなく、「印象」や「好感」「共感」でなされるようになる。
一方で、全体主義は「すべてを理解するのは無理だから、誰かに任せる」という構造だ。統治者が解釈し、決定を下す。大多数は従うだけで済む。その分、効率は良いが、統治者が誤った判断をしても、訂正する仕組みが働きにくい。
このようにして、情報を「共有できる範囲」を超えたとき、人類は「どう意思決定をするか」という課題に対し、民主主義と全体主義という対照的な仕組みを生み出したのだ。
(物語と文字:情報伝達の進化)
人間が「情報」を他者に伝える手段として、もっとも古くから行ってきたのは話すことであり、そこには「物語」があった。単に出来事を列挙するのではなく、登場人物、因果関係、感情を交えながら語られるストーリーは、聞き手の記憶に残りやすく、理解もされやすい。
たとえば、「昨日、北の谷で獣が出た」というだけでは、聞いた人がその情報をどう受け止めるかはまちまちだ。具体性も乏しく、注意喚起としては弱い。一方で、「昨日、狩りに出た仲間が北の谷で巨大な牙を持つ獣に遭遇し、あと一歩で命を落としかけた。逃げ延びたものの、恐怖で声も出せず、今も震えている」と語れば、場所・状況・感情を含めて立体的に相手に伝わる。
このように、人は「出来事そのもの」よりも「物語として語られた出来事」の方に強く反応し、情報を理解する。だからこそ、人類は太古からストーリーテリングによって情報を伝えてきたのだ。
しかし、物語には欠点もある。語る人によって内容が少しずつ変わり、やがて事実と異なるストーリーへと膨らんでいくことだ。人から人へ伝わるうちに尾ひれがつき、全く別の話になってしまうこともあるのだ。
この限界を補うために、人間は言葉を記録する手段を発明した。最初は粘土板や刻印、やがて羊皮紙、そして紙へと発展し、最終的に活版印刷が登場することで、「記録された情報」が広範囲に、そして安定して伝達されるようになった。そして、「何が書かれているか」が「誰が語ったか」よりも重視されるようになり、次第に情報の民主化が始まった。
人間は、ストーリーで伝える柔軟さと、文字で残す確実性、そして情報の公開性という三つの武器を手に入れた。それは情報の進化であり、人間の思考と社会構造を変える大きな転機となったのだ。
(解釈者の権威化と全体主義への転換)
情報が開かれると、再び過去に起きた、新たらしく古い課題に直面する。それは「情報をどう解釈するか」だ。同じ文章を読んでも、解釈は人によって異なる。そこで人々は、情報の意味を「教えてくれる」存在を求めた。宗教のラビ、政治思想のイデオローグ、企業のカリスマ経営者など、「解釈者」が生まれた。現在は、文章を理解出来なくても音声や動画では理解できる人が多く、紙媒体はデジタル媒体になり動画や音声での理解が一定の割合で加速する。
しかしやはり、情報そのものよりも、「誰が語ったか」が重視されはじめるのだ。こうして特定の人間に対して「正しい解釈者」とされる人物が現れ、情報の解釈に関する疑問は排除される。しかし、その解釈が正しいかどうかは重要ではない。そのため、仮に解釈が誤っていても訂正そのものがされない状態が続くのだ。
結果として、情報の民主化が進んだ先で、解釈の独占と支配、しいては全体主義が生まれやすくなるのだ。ただし、すべてがそうなったわけではない。情報を開いたまま多様な解釈を認める、民主主義的な社会も当然に残る。そこでは、議論と訂正が可能であり、変化を受け入れる柔軟性がある。この両者の違いは、情報や判断に対して修正できる構造かどうかにある。
ただ、人間は自ら問いを立て疑問をもつよりも、受け身になって自分が信じる解釈社の言う事を聴いていたほうが楽なことを知っている。そのため、全体主義的な状況に身を置く人間が増え、民主化で互いに議論と訂正をする行動をとる人間がマイノリティになるのだ。
そしてAIが登場する。何が正しいか、誤っているかが不明瞭な時代のAIの登場は痺れるくらい危険もはらむのだ。
(AIと情報の氾濫:判断不能の時代へ)
「正しさとは何か?」という問いに対して、人間は長い間、経験や対話によって答えを模索してきた。一方で、多くの人間はその問いすら考えることもなく過ごしていた。しかし、いよいよ、その問いを考え続けた人間にとっても、根本的に構造が変わる時がきたのだ。
SNSの普及によって、人は「正しい情報」ではなく、「誰とつながれるか」を重視するようになった。情報の内容は重要ではなく、「それ」によって得られる共感や仲間意識が優先されるのだ。そのような環境では、たとえフェイクニュースであっても、信じたい物語に近ければ簡単に受け入れてしまう。或いは、既に多くの人間はフェイクかリアルかの意識を持たないまま、感情や自分が属する場、つまり所属によって関係構築をする道具そのものが情報になっているのだ。
そしてAIが加わった。AIは意図や倫理をまだ持っていない。目的の達成のために、大量の情報を瞬時に生成し発信することができる。その気になれば、発信した情報に対して、あたかも人間が対話しているように場の雰囲気を作り、その情報を活用した場を深め拡散することも可能だ。そしてその精度と速度は人間の認知能力を遥かに超えている。
結果、世界には「事実かどうか」がわからない情報が今に比較にならないほど溢れ、人々は何を信じてよいか分からなくなっていくのだ。それは情報社会の進化の行く末に、判断不能な社会の到来が始まるのだ。
(分断される人間社会:理解できる者と、流される者と)
このような情報環境では、人々の間に新たな分断が生まれる。或いは、既に生まれていたがその境が明確になる。情報を批判的に扱い、AIを理解して活用できる人々と、情報に流され、何も考えずにこれまで通り過ごす人だ。
前者の理解できる者は問い、調べ、判断し、テクノロジーを使いこなす力を持つ。他方、後者の流される者は、情報に流され、何が正しいかを考えることもしなくなる。もちろん出来ない。情報の量と複雑さに圧倒され、感情や関係性で無意識に受け入れるのだ。
この分断は、AIによる情報量の爆発に人間の処理能力が追いつかないこと、そして情報リテラシーや教育環境の格差に起因していると思う。「情報を構造的に理解し、活用できる人々」と「感情で反応し、情報に依存する人々」このような対立が生まれるのだ。そして、これが格差そのものの因果になり、社会に大きな影響力を及ぼすだろう。一部の人々はAIを駆使し、他者を支配しうる。しかし、同じ技術で救うこともできる。理解できる者のモラルは非常に重要だ。
人類は今、分断の渦中にいる。どちらに進むかは、人間の選択、それも理解できるもののモラルににかかっているのだ。
(情報とともに生きる:私たちはどこへ向かうか)
AIが無限に情報を生成し、真偽の境界が曖昧になる今、人間は情報とどう向き合えばよいのか。鍵は、「自ら問う力」だ。与えられた情報を鵜呑みにせず、その背景や意図を問い、自分にとっての意味を考えることだ。また、情報を他者と共有し、対話を重ねる姿勢も必要だ。異なる意見に耳を傾け、多様な視点と接することで、偏りから自由になれる。
AIやSNSをただ恐れるのではなく、正確な情報の見極め方と使い方を学び、つながりを育みながらも、誤った情報に流されない判断力を持つこと。それが、これからの時代の知性である。
人間は、進化の過程で「虚構を信じる力」を手にした。それこそが、他のホモ属との決定的な違いだった。神、国家、貨幣、制度。いずれも目に見えないが、人類はそれらを信じることで、大規模な協力と社会制度を築いてきた。
しかし今、その「虚構を信じる力」が新たな危機を生んでいる。AIが作り出す無限の物語と、人々の信じたい気持ちが重なり、現実との境界が曖昧になっているからだ。虚構を信じて発展してきた人間が、今度はその虚構によって崩壊しかねない状況にあるのだ。
だからこそ、これからは「虚構に耐性のある人間」が生き延びるかもしれない。目の前の現象に向き合い、検証し、問い続ける力。それこそが、次の時代の生存戦略なのかもしれない。虚構を活かすも、囚われるも、人間次第なのだ。