ーー日本経済新聞2018年2月28日抜粋ーー
一律だった新卒社員の待遇を見直す企業が増えている。フリーマーケットアプリ大手のメルカリ(東京・港)はインターンシップ(就業体験)の実績を入社後の年収に反映させる制度を導入する。人材の獲得競争が激しくなるなか、3月1日から本格スタートする就職活動でも、実力に応じた柔軟な待遇をアピールする企業が増えそうだ。
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と、ようやく世の中(日本)は当たり前の議論が始まったのかな、と思う。そもそも新入社員一括採用は1970年代の高度経済成長のモデルであって、今の時代には合わない。当時は、トップが示した方向性が正しく、業界の中での模倣は米国にあった。従って、ひたすら効率よく、決められたことを正しく処理する人材が優秀とされた。そしてひたすら追い越せ追い抜けだ。当然、そのような人材は学歴や偏差値である程度ふるい分けができ、ある程度教育の正解で一定以上のレベルをあげることができた。
が、今は違う。世の中が成熟して企業の多くは10年も20年も前のビジネスモデルにしがみついて生きている。そしてこの先何をすることが正しいのかだれも解をしらない、答えが無いのだ。このような先が見通せない世界に対しては平均的な能力の高い集団よりも、極めて尖った人材や変わった人材が数名いれば組織の方向性を変えることができる。
また、当時と状況が違うことに情報と物流がある。ことITに関しては世の中がスマフォセントリックになり投資が小さくても一気に世界化できるビジネスが可能になった。また、全てを自前で保持しなくても、必要なことに特化して、あとは他の組織の資本を活用することでビジネスが進む時代にもなった。明らかに世の中の構造が変わっているのに採用に関しては変わっていないのが現状だ。
大企業をみてみよう。2000年の採用も、2017年の採用も見た目は少し変わっているが、中身に代わり映えはしない。相変わらず大学の先輩が大学を訪問して、めぼしい学生を見つけてエントリーシートの数を競う。しかし、就職担当者は、会社の戦略を紐付けた人事戦略をもつのではなく、ただ採用人数というKPIに翻弄して、優秀だという学生(ここでは偏差値、大学、人柄)を闇雲に探すのみだ。
従って、採用しても新人社員の教育にも大きな変化がなく、超優秀な人材も、そこそこの人材もまとめて、幼稚園生程度のレベルの低い集団教育を施し、社員の士気を一気に低下させる。結果、超優秀な社員は数ヶ月でその組織に見切りをつけて去っていく。
OECDの資料を見てみる。1995年当時の名目賃金を100とした場合、日本は2015年現在では100を割っている。従って賃金そのものは上昇どころか下がっているのだ。一方、米国やユーロ県の企業は190前後の数値を示し、当時と比較して給与が倍になっているのだ。
日本は一生懸命に生産性を訴え続けている。が、そもそも仕事の成果に対しての定義もあいまい。そして挙げ句の果てには労働時間一辺倒で労働の質を測る始末。そもそも生産性は、労働の成果にたいして、どの程度の入力(時間、カネ、人、モノ)を投入したかで決まる。従って本質的な議論は出力である成果と入力の両方をする必要がある。が、現在は入力、しかも時間のみだ。
日本生産性本部が示す資料を見てみる。日本の一人あたりの労働生産性は7.4万ドルだ。ギリシャですら8万ドルを示しており、1位のアイルランドは15.4万ドル、米国は12.1万ドルと差がかなりついている。
物事は平均で考えてはいけないが、大企業は個々人の成果を明確に決めて測定することが難しかったか、行いたくなかったか。結果的に賃金に差をつけることをあまり行っていない。経済成長がいけいけで、みなが同じ方向を向いていた時期はよかったが、やはり2000年以降の世の中の構造変化の中ではこの制度事態がやや苦しい。
報道であるようにIT関連は、個人個人の労働生産性の質は全くことなる。従って、適切にその方々の成果を規定できれば給与差を10倍以上つけても会社としては問題ないはず。ただ、この動きは一部のIT企業やベンチャー企業にとどまると考える。
大企業がこの仕組みを導入すると、本体の人事評価そのものを見直す必要があるし、長年働いた方々の給与よりも新入社員の給与がいきなり高い状態がでてきて塩梅が悪いからだ。ちなみに、日本の大手大卒の月収は20万円(私が2000年に新入社員だった頃と変わらない)。ファーウェイは40万円。深センの優秀なエンジニアは80万円。アマゾンの新本社が発表した新規採用5万人の平均は95万円(年収う1130万円)。インドの優秀なエンジニアは125万円。グーグルやマイクロソフトの初任給は160万円。
この数字をみたた多くのサラリーマンは理解できない数字だ。しかし、新に尖った人材やグローバルで突き抜けて戦うポテンシャルに対して支払う金額は上記が当たり前なのだ。