早嶋です。
文化の定義をウィキで調べてみました。いくつかの定義があるようですが、総じていうと人間が社会の成員として獲得する振る舞いの複合された総体のこと、だそうです。従って、年齢や地域社会や血縁組織など、人間が属するグループによって固有の文化があり、組織の成員になるということは、その文化を身につけるということだと書いています。人間は同時に複数の文化に属し、また異なる文化が共存することも可能です。
文化。近年は昔に比べてずっと安価で手が届きやすいものになりました。例えば、本、映画、音楽、芸術、舞台、等々です。その他にも学習や娯楽、ニュースやインスピレーションも当てはまるかもしれません。昔のように文化に触れようと思ったら、覚悟を決めて長い時間かけて習得しなくても、気軽にそれぞれの文化の断片に触れることができるようになりました。
経済学者のタイラーコーエンの論文に、文化の普及や現代人の捉え方の変化について、アクセスのし易さをキーにしていました。アクセスのし易さ。距離や時間や難易度です。100年前のコンサートと言えば、その会場に行くまで半日から一日をかけていた事でしょう。長い道のりは、徒歩も含めて今よりも随分と苦労が伴ったと思います。従って、コンサートの価値はその苦労を大きく上回るものだったと思います。そして、ただコンサートを見て終了するのではなく、その後の社交の場としての意味も大きかったでしょう。現在はどうでしょうか?移動がかかったとしても車か電車。都市部であれば1時間程度の移動で楽々その会場についてしまいます。そして、そのコンサートが終わったら余韻に浸る間もなく、別の予定をこしている事でしょう。
本は昔は貴重で高価なものでした。買いに行くにも、どこにでも売っているわけではありません。でも、今ではコンビにでもアマゾンでも気軽に本と接することができます。場合によっては、図書館で好きな本を検索して、その場で内部を閲覧することだって可能です。持って行くときも、何冊も鞄に詰めて行く必要がなく、手元のツールにダウンロードしておけば、いつでもアクセスが可能です。これは音楽や芸術、様々なもののアクセスが可能になりました。芸術や美術であっても、その映像や動画であれば、簡単にアクセスできてしまうのです。
これらのポイントをアクセスと言う点でまとめると、アクセスが簡単であれば、文化は断片的で短く、小さいものを好む。アクセスが困難になると、大規模で傑作と言われるものを好む。タイラーコーエンは、このことをピースと表現し、小さなピースと大きなピースと称しています。
つまり、アクセスコストが高ければ、小さなピースの文化ははじかれる。小さなピースは選ぶに値しないので、結果的に大きなピースの文化が選択される。そして、アクセスコストが低ければ、大小様々なピースの文化が選択され、結果的に小さなピースが好まれる。
小さなピースの文化が好まれる傾向は近年急速にすすんでいると思います。例えば音楽。そのアーティストのCD全部を買うのではなく、最も気に入った1曲2曲をiPodに落として聞いています。ユーチューブで人気が出ている動画の時間もどんどん短くなり今では2分をきっています。ネットの広告やラジオの広告もどんどん、シンプルに強いメッセージになり、短くなっています。新聞の記事や1つのニュースの解説もどんどん短くなっています。ウェブでの記事も、スクロールして読んだり、クリックして読み進める記事が減ってきて、文字数自体が減っています。ワインの書評、本の書評、映画の書評、レストランの評判、商品の評判。このような口コミサイトや評判サイトが常に人気を博し、このんで読まれています。そして、その競争はますます激しくなっています。
では、人はなぜ小さなピースの文化に手を伸ばすのでしょうか?なんといっても気軽で、どんどん新しい事に挑戦し易くなります。様々な事をしながら、隙間時間に文化に触れることができます。移動の合間、仕事の合間、休憩の合間。人生のありとあらゆる合間にも小さなピースの文化だったら断片から初めても抵抗がありません。小さなピースなので、毎日何か新しい、わくわくする何かを感じる事ができるかも知れません。
このように考えると、現在の人々が多様化していることが良く理解できます。昔は大きなピースの文化だったので、傾向としては社会の成員毎その傾向や考え方、立ち振る舞いが異なってきました。しかし、現在のようにアクセスコストが低くなり、かつ様々な小さなピースの文化を個人の意思によって選択できるようになれば、それらが独自の文化を形成して細かくなるのも理解できます。識者の中には現在の文化がチームなものになっているとの声を聞きますが、その評価自体が昔の大きなピースの文化の枠にはまっているのかも知れません。