ワインを飲むときに事前に知識や蘊蓄を教えてもらうと何故かそのワインが美味しく感じられます。ワインに特に精通していないという理由もあるでしょうが、何故、そのように味覚が変化する感覚を覚えるのでしょうか?
野球を見ている時にも、応援しているチームがぎりぎりのプレーをした場合、審判が取った判断に対して疑問を投げかけます。今はセーフだろう・・・って。同じ映像を見ても贔屓にしている側はセーフ、一方相手を応援している側はアウト。画像での判定を見ても同じものを見ているにも関わらず認識が違ってきます。何故でしょうか?
コーヒーだって、同じ手法で淹れても、紙コップで飲むときと、カップで飲むときは味が異なります。惣菜屋さんのおかずも、別途盛り直して食べた時と、そのままプラスチックの容器で食べた時は味が違うように感じます。
人は前もって期待した通りに判断したがるのでしょう。つまり、これはおいしいぞ!と思えばおいしく感じる。もちろん、ある程度の味の品質はある場合を前提としています。そして期待通りにおいしい!と判断する。
このことについてはブログ「ペプシチャレンジ」でもコメントしました。二つの飲み物がコカコーラとペプシと分かっている場合は、人はペプシが美味しいと答えます。コカコーラとペプシがどっちか分からない状態ではペプシと答えます。
これはコカコーラのブランディングの勝利とも言えるでしょう。コカコーラと分かれば、人の感情的な部分が刺激されます。つまり、脳の前方部分である前頭前野と呼ばれる記憶や連想、認知や観念など高度な判断をする部分が刺激され活発になります。
人がプラスの予測を行う場合もコカコーラと分かった時とおなじ部分の脳が刺激されるといいます。しかし、予測の機能はもっと素晴らしいモノがあります。人が何かを事前に予測する事によって、通常の生活をぐっと暮らしやすくしているのです。
例えば、騒がしいと予測した場合、ところどころ聞き取れない会話でもその前後のつながりを考える事ができます。携帯電話のメールにところどころ省略した文字が使用されていても、すんなり読むことができます。
これらの予測は経験や学習の積み重ねによって培われるため、本人と他社の予測は正確には異なってきます。そのため野球の試合を見ていてもファンに少し贔屓よりのレンズを通して見ているのかも知れません。しかし、それによってスポーツをより楽しく観戦する事ができるのかもしれません。