早嶋です。
「答えが無い時代に答えを教える愚」。大前さんの言葉です。絶妙な言葉だと思いませんか?
これまで義務教育で受けてきた授業では、必ず答えが存在しています。例えば国語の授業でもしかりです。早嶋の国語の点数は偏差値で言うといつも40以下。つまり、最低レベル。
ただし、自分なりに疑問を持っていました。例えば、国語のテストで次のような問題がありました。「著者はどのような気持ちでこのような表現をしたのでしょうか?」などです。このような問いに対して、本なんて読んだ人が受け取った気持ちが大切じゃないの?著書の気持ちなんて誰も分からないし、まして、テストで答えを求めるのはナンセンスじゃない?って。仮に、答えがあったとしても学校の先生が著者と相当に仲良しでなければ、その気持ちなんて分からないんじゃないか?と。
大切なことは、文章を読んで感じたり、考えたり。或いは行動をおこしたりする事ではないか?人がどのように考えたかを議論したり、シェアしたりする事は大切だと思いますが、その考えに○や×をつけるのはいかがなモノかと。
現実世界では、唯一の答えを探すほうが苦労する、むしろ絶対的な答えなんて存在しないのではないでしょうか?時代背景、状況、様々な要因によって流動的になる。そのようなとき、如何に多面的なモノの見方をしていくのか?その上で、問題を解決していくといった能力のほうが大切ではないでしょうか。
現在の義務教育は、詳しく知りません。しかし、少なくともこれまで受けてきた義務教育を考えた上では、考える事よりも先に解答と解法を勉強した記憶があります。早嶋はたまたま、海外の教育を社会人になって受けた経験があるので、答えなんて無いから、達成確率を上げるために何をするか?という考えが身に付きました。しかし、常に与えられる答えを頼りに過ごしていたとすると、答えが見つからない瞬間に脳みそが思考停止になっていた事でしょう。今考えると、ぞっとします。