新規事業の旅144 勘違いをぶっ壊せ

2024年10月24日 木曜日

早嶋です。7,700文字。

新規事業の担当者は2種類の方がいるのでは無いか。初めての取組に対して、ドキドキしながらも行動ができる人と何だかんだ言って、考えたことを行動に移せない人。前者は何かしらの成果がでるだろうが、後者は資料やアイデアが貯まるばかり。新規を行うためいは、あるいは今までと異なる慣れないことに取組むには、マインドに対しての一定の理解も必要だと思う。

(意識)
そもそも意識とはどのような概念だろうか。意識を簡単に言えば、自分が何かを感じ、考えることに気づいている状態だ。具体的には、意識は自分の内面の思考や外部の刺激を知覚し、それに対して反応する能力を指す。例えば、何かを意識することで、それに注意を向け、自分の行動や判断を調整することができる状態だ。

面白いのが、意識した瞬間から突然できなくなることや、自分との脳内での対話が増え、当たり前のことが出来なくなる場合ある。逆に、意識が飛んで時は、自動運転モードになって何も考えずに体が動いている状態もあるのだ。このような現象に対して、心理学や脳科学では研究の対象として扱われている。私が言う自動運転モードは、自動化とかフロー状態と呼ばれる。

(フロー状態)
フロー状態は、意識が特定の行動やタスクに深く集中し、複雑な思考をしなくても自然と体が反応する。これは、長時間の練習や経験(私は修行と呼ぶ)により、脳がその行動をほとんど無意識のうちに処理できるようになる状態だ。例えば、スポーツ選手が競技中に複雑なプレーを「考えずに」こなせるのは、このフロー状態に近いものだ。意識があるとき、私たちは選択や判断を行い、外界との相互作用に基づいて行動する。しかし、特定の行動が習慣化され、熟練の領域に達すると、その行動は無意識下でも遂行できるようになるのだ。この無意識の動作が、いわゆる自動運転モードそのものなのだ。

整理すると、意識とは、自分の行動や思考に気づいている状態で、それがなくなると、脳は自動的に身体を動かす機能に切り替えることがあるのだ。この自動運転モードが、ある意味で脳の効率的な処理方法とも言えるのだ。

(フローのメリットとデメリット)
フロー状態に入ると、非常に効率的でスムーズにタスクをこなすことができる。しかし状況や活動の種類によっては、思考の固定化につながることもある。フロー状態の特徴は集中力の極限、つまり1つのタスクに深く集中して周囲のことに気が付きにくくなる。そして行動が自動的に行われる。経験やスキルが高度に統合され意識的に考えずとも動くのだ。不思議と時間の感覚が喪失される。時間があっという間に過ぎ去り、逆にときが止まったように流れたりと状況に応じて様々だ。そしてそれらが没入感や没頭感になりとても何かに対してやり甲斐を生み、達成感を得られるのだ。おそらく、既に習得したスキルや知識を使い、タスクを効率よくこなすのに非常に適している。しかし、新しいアイデアを生み出す場面や創造的な思考には必ずしも最適ではない状態でもある。

フロー状態は、基本的に既存のスキルや知識を使って、自然にできる作業に没頭するプロセスだ。既知のルールやパターンに従う作業には非常に効果的だが、新しい取組や創造的な作業には適さないことが言える。思考の固定化だ。フローでは、効率を重視した自動的な行動が強調される。粗pのため、新しい視点やアプローチを探るための柔軟な思考が抑えられる可能性があるのだ。既存の方法が「ショートカット」のように定着し、それに頼りがちになるからだ。

そもそもフローは既存のスキルに依存する。これまでと異なる枠組みや思考は重視されない。新規事業のように、新しい取組には「試行錯誤」や「探求」がつきもので、そのようなプロセスは通常、フロー状態に適していないのだ。そのため創造的な作業には、自由な思考や柔軟なアプローチが求められることが多く、フロー状態ではそのような「ゆらぎ」や「探索」が抑制されがちになる。フローは効率的な作業に最適化されるため、試行錯誤や「一度立ち止まって考える」瞬間が少なくなるのだ。

ただフロー状態に創造性が両立される場合もある。それは、ある程度の基礎的なスキルが身についており、熟練した領域では、フロー状態に入ることで逆に創造的な成果を効率的に生み出すことが可能だ。たとえば、アーティストや作家、スポーツ選手がフロー状態で活動すると、非常にスムーズに創造的なアイデアやプレーが生まれることがあるのだ。これは、基本的なスキルや知識が自動的に処理され、その結果として、新しいものを生み出すための精神的な余裕が生まれているからだと考えられる。

(マインドと意識)
これまでマインドと意識を分けて書いてきたが、これらは似ているようで異なる概念だ。心理学や哲学などでも異なる側面があるが、私は分けて考えている。

マインドは、広い意味で人間の心の全体を指す概念だ。思考、感情、知覚、記憶、意思など、心に関わるあらゆる働きを含む。マインドは、意識的なプロセスと無意識的なプロセスの両方を含むため、単に意識している状態だけではなく、潜在意識や無意識的な思考や感情も含まれる。マインドセットという言葉は、その人の思考や信念のあり方を指し、無意識的に影響を与える部分も含めて、総合的な心の状態を表現するのだ。

意識は、上述したがマインドの中でも特に自分が気づいている状態だ。つまり今この瞬間に自分が何を考え、何を感じ、何を経験しているかという自覚のある状態だ。意識は主に、覚醒している状態や思考、感覚に対しての注意や気づきに関わる。誰かと会話をしているとき、その会話の内容に集中している状態は意識的な状態で、何かを学んでいるときに「今、何を学んでいるか」に気づいているのも意識の一部だ。

意識の反対は無意識だが、無意識はより複雑な概念だ、あることの証明より無いことの証明が難しいそれに似ている。自分が気づいていない、あるいは意識的に制御できていない精神や思考の領域を指すからだ。無意識は、私たちの日常生活や行動に大きな影響を与えているにもかかわらず、その内容を直接認識することができないのだ。無意識は心理学や精神分析で特に注目される概念で、フロイトやユングなどの心理学者によって詳しく研究されてきた。

無意識は、普段意識しなくても自動的に行われる行動や反応を管理している。自転車を運転することや歩くことなどは、最初は意識的に学習する必要があるが、習熟すると無意識的に行えるようになる。フロイトによると、無意識には、意識することが難しいか、あるいは痛みや不安を伴うために抑圧された感情や欲求が蓄積されているとされている。これらの無意識の内容が、夢や無意識的な行動、あるいは「うっかりミス」として現れることがあるという。私たちの脳は、膨大な情報を瞬時に処理しているが、そのほとんどは意識に上がることなく無意識の領域で行われる。運転中に周囲の状況に反応する行動や、周りの音や視覚情報を処理するのは無意識の働きなのだ。無意識は、長い間繰り返された行動や習慣に基づいて働く。朝起きてからのルーティンや、危険な状況に直面したときに咄嗟に反応するのは、無意識が関与している。意識的に考えなくても、自動的に反応が起こるのは無意識の典型的な特徴なのだ。

私たちの解釈では、意識は、自分が何を考え、何を感じているかに気づいている状態だ。自分の思考や行動を意図的に制御することができる範囲だ。一方、無意識は、自分が気づいていない心の領域であり、意識的に制御できない部分だ。それは自動的に動作し、私たちの行動や感情に影響を与えるが、意識的に把握することは難しいとされる。

(新しい取組の阻害要因)
私たちは、これまで経験した取組みに対しては、一定の慣れの上、無意識に行動ができるようになる。特に、動物として生きるための機能は無意識で行われる。呼吸や知覚の活用は無意識だ。一方で、無意識の領域に対しては、意識することでより深く理解し活用できる取組もある。逆に、近くや呼吸などは意識を集中することはできるが、それだからと言って全てを理解できるものでもない。また、何か習慣的に取組んできた行動は、はじめは意識的に行うが、徐々に慣れ、ついには無意識に、つまりあれこれ考えないでも行動に移せるようになる。

ここでの疑問は、慣れる前にそもそも取り組めなくなる。行動を抑制してしまう何かがあることだ。その理由を理解することで、チームや自分のマインドをコントロールすることができると考える。特に、齢を取れば、経験を積めば、新しいことへの取組が、何故か難しくなってしまう。取組そのものを難しく考え、行動を抑制するのだ。その理由については、心理的、社会的、生理的な要因が複雑に絡み合っていると考える。

良く言われるのが固定観念とコンフォートゾーンだ。年とともに、長年の経験から得た固定観念(慣れ)や思い込みが強くなり、新しい考え方やアプローチを受け入れにくくなることがある。人は慣れ親しんだ方法を選びがちで、新しいことに挑戦するリスクを避けようとする傾向が強くなる。この大人になるに連れ、慣れるにつれ安定や安全を求める傾向が強まり、今までのやり方や習慣を、コンフォートゾーン(快適領域)として捉え、抜け出せなくなるのだ。

そして、新しいことに挑戦する際には、失敗のリスクが伴うことを経験から学んできた。大人になる頃には多くの失敗(実は大したことは無いのに)を経験してきて、都度、自尊心を傷つけた経験を思い出すのだ。そして社会的、あるいは経済的な負担と責任が増すため、失敗を避けたいという感情が強くなるのだ。結果、取り組んだことも無い、未知の挑戦に対して恐れや不安を感じることが多く、行動が抑制されるのだ。ある意味、過剰な防衛反応とも言えるの。更に、大人は社会の中での地位や役割に対する意識が強く、他人の評価や期待に敏感になっている。結果、新しいことに挑戦して失敗することで、他人からの評価が下がることを恐れているのだ。

子どもの頃は脳の神経可塑性(脳が新しいことを学び、変化する能力)が高い。柔軟に新しいことを吸収しやすい。しかし、年齢とともにこの可塑性は徐々に低下し、新しいことを学ぶスピードが遅くなり、記憶力や集中力も低下すると言われる。これが、新しいことに取り組む際の抵抗感や「習得できないのではないか」という感情を引き起こす原因にもなっている。

意識と無意識のところでも触れたが、大人になると過去の経験や成功体験が自己イメージを形成し、それに基づいて行動する傾向が強まる。これまでに成功してきた方法やスキルに依存し、新しい方法や未知の挑戦に対して抵抗感を生じさせるのだ。「これまでこれでうまくいっていた」という考えが、新しい挑戦を抑制する原因になる。一度習慣化された行動は、無意識に行われ、意識的に新しいことに挑戦しようとしても、無意識の領域が凌駕してしまうのだ。新しいことを始めるためには、既存の習慣を打破すれば良いのだが、それが簡単にはいかないのだ。

大人になるにつれ、仕事、家庭、社会的な責任が増え、自由に使える時間やエネルギーが限られてくると勘違いする。リスクを取り新しいことに挑戦するより、既存の仕事や責任を優先する傾向が強くなるのだ。そして勝手に余裕がないと感じ、行動を抑制するのだ。年を取ると、本当は暇なのに家庭や仕事のスケジュールが増え(ると勘違い)、新しいことを学ぶ時間やエネルギーが不足するのだ。

別の視点では自己効力感が低下することも考えられる。自分が新しいことに挑戦したときに成功できるという自己効力感が下がるのだ。特に過去に失敗を経験し、新しいことに取り組むチャンスが減少すると、自分に対する信頼が弱まり、「どうせうまくいかない」という消極的な考えを強くしてしまう。ここは年齢とともに体力やエネルギーの低下とも関係するだろう。特に新しい取組は、何もかもがてんてこ舞いになるので、精神的な負担も大きく、多くのエネルギーと集中力が必要だ。年を取ると、それを意図的に避け、省エネモードに舵を切るのかも知れない。

(子どもの時を考える)
大人の対人しての子供を考えて見る。大人よりも新しい取り組みを積極的に行い、どんどん吸収する理由もやはり心理的、生理的、環境的な要因によるだろう。大人と比べて、子どもは成長過程にあり、その特徴が新しいものに対して非常にオープンで柔軟な姿勢を持つことにつながっていると思う。

子どもの脳は成長過程だ。神経可塑性が高いため、新しい情報や経験を受け入れて学習する能力が非常に高い。神経可塑性は、脳が新しい経験や刺激に応じ、神経回路を再構築し、強化する能力を指す。この柔軟性が、新しい知識やスキルを短期間で吸収するメカニズムだと考えられる。何より、子供は好奇心と探究心の塊だ。子どもにとって、世界は新鮮で、まだ見知らぬことばかりだ(実は大人もそうなのだ)。そのため、何でも「知りたい」「やってみたい」と思う好奇心が旺盛で、新しい取り組みに対する意欲を強くする。何ができるかを試しながら、世界を理解する探求心が働き、新しいことに対して自然に挑戦するのだ。おそらくここは無意識の領域が動かしていると思う。

更に、子どもの脳やマインドには、未知へのおそれが無い。子どもはまだ過去の失敗や固定観念が少なく、「失敗するかもしれない」という恐怖心が少ないのだろう。新しいことに対する心理的な抵抗が大人に比べてうんと低く、自由にチャレンジするのだ。失敗は、大人と同じで学習プロセスの一部だ。ごく自然な行いと捉えられる。逆に、大人は失敗を恐れがちで、子どもは失敗を気にせず、新しいことを試し続ける。子どもがまだ社会的な評価や他者からの批判を強く意識していないことが原因と思う。逆を考えると、大人は勝手に社会的な評価を気にしている生き物なのだ。子どもは、初めての経験を通じて自分の限界を知る。とても前向きなのだ。初めて自転車に乗るときも、新しい遊びを覚えるときも、失敗を重ねながら徐々に習得する。むしろ失敗という概念がまだ形成されていないのだ。

子どもは環境からの刺激、つまりは外部の変化に非常に敏感で、何に対しても反応する。周囲の音、色、動きなどの外的刺激を敏感にキャッチし、それらに対して興味を持ち、学び取るのだ。この反応性の高さが、新しいものへの取り組みを促進している。遊びが学びの一環であり、常に新しい遊びや活動に挑戦する過程で自分の能力を伸ばしていく。遊びは自由で楽しく、新しいことに対する抵抗感がほとんどなく、自然に取り組むことができるのだ。

本来の子供でも、親の過度な期待や、親の虫眼鏡で遊びを危険視すると、当然に子供は挑戦をしなくなるし、新しい物事に対しての取組は自然なものではなく、どちらかと言えば否定的な感覚として捉えてしまう。そうが得ると、今の教育や国が推奨する義務教育は結構イノベーションを起こす社会には真反対の取組になっている。本来、社会のプレッシャーが無い子どもだからこそ、無心に貪欲に好奇心と探究心を糧に様々に吸収するからだ。

そのように考えると、社会的なプレッシャーという幻のおかげでチャレンジをしなくなるのかも知れない。本来の子どもは、大人と違って、社会的な評価や期待に縛られることがなく、自分の興味や関心に従い自由に行動できる。大人は失敗したときの社会的な評価を気にしすぎて(実は周りはなんとも思っていない場合が多い)、子どもはそのようなプレッシャーが少ないため、自由に新しいことに取り組むのだ。子どもの軸には「何が正しいか」「どう評価されるか」ということよりも、「これが楽しい」「これを知りたい」という純粋な動機に基づき行動する。結果を気にせず過程を楽しむことができるため、新しいことに挑戦するハードルが低く、いつまでも続くのだ。

自己意識という領域では未発達なのだろう。周囲の評価を気にしないことは、新たな刺激を積極に受け入れる意味ではプラスなのだ。しかし、外で走り回って探求することもを、「やかましいから止めなさい」「はずかしいからおとなしくしておきなさい」としていくと、探求そのものを悪のように勘違いしていくのだろう。とも考える。自己意識は、行動を抑制する取組にもなるのだ。新しいことに挑戦する際に「失敗したらどうしよう」「周りにどう見られるか」という心配が生じ動けなくなるのだ。本来の子どもらしい子どもは、自己意識が低いが故に自然と新しいことに挑戦するのだ。

過保護は良く無いという声もあるかも知れないが、保護されている。守られているという絶対的な安心感はとても重要な要素だ。前提として子どもは親や大人のサポートを受けている。リスクを取って新しいことに挑戦しても、守られているという安心感があるのだ。この安全基地の存在によって、子どもは失敗を恐れずに挑戦し続けることができる。何かあったらママやパパがいる。あったかい家庭がある。この感覚はとても大切だ。しかし、大人はこの「守られている感覚」が減り、リスクを取ることに慎重になるとも考えることが出来る。

諸々考えると、実は大したことが無い責任、役割などを暗黙のうちにどんどん背負った結果、しょうもない大人がでっきあがっている。考えるに、子どもはその社会的な役割や責任を感じていない。その分、自由に動けるのだ。無意識の世界で行動をしているのだろう。新しいことに挑戦するリソース(時間、エネルギー)も豊富で、次々に新しいことを試す余裕がある。大人は社会的な役割や責任を勝手に課題解釈して、新しいことに取り組む余裕を自ら制限してしまってるのだ。

(挑戦する組織)
諸々考えると、「無意識に新たな取組をやってみたい!」という自然のように動き回れるように、子どものように戻すことが大切だと思う。そのためには、一つの取組ではなく、複合的な取組が必要だ。ただし、とても重要なことは、誰だって子どもの頃は、好奇心と探究心を武器に、勝手に新たな取組を吸収して試行錯誤しながら、失敗を経験しながら成長していたのだ。それをいつしか勝手に解釈した社会の責任感により自己暗示をかけてしまっている。この状態をメタ認知して、動かないおじさん、おばさん像を捉えて笑ってしまおう。それは虚像なのだと。

企業が新規事業やこれまでと異なる領域での取り組みを行う際、メンバーに「マインドセットの変革」が必要だと言われながらも、実際にそれが進まないケースは多い。これまで説明したようなことを、自分の事例に置き換えて考えることが少ないからだ。結果、そのようなメンバや組織は、勝手にセットした固定観念や過去の成功体とらわれている。ただこれも勘違いなのだ。勘違いが新しい挑戦に対して心理的、行動的な抵抗があるという、どうでも良い理由で行動していないだけなのだ。これを理解してぶっ壊すことがそもそものマインドセットなのだ。



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