新規事業の旅160 消費と浪費

2025年2月26日 水曜日

早嶋です。4200文字です。

消費と浪費について考える。その際のポイントは「満たされるかどうか」だと思う。

(意識的な選択と観念的な強制)
消費は、必要に基づいているというよりも、観念的なものであり、終わることがない。これは、資本主義の構造そのものに組み込まれている概念だ。消費を続けることで経済が回り、資本家は利益を得る。そのため、「消費者」という概念が生まれ、それが常に消費を促す仕組みを生んでいる。2011年発売の「暇と退屈の倫理学」國分功一郎著を読んで刺激を得た。哲学的なアプローチの著書だが、事業に活用でできる概念だ。

たとえば、ファッション業界を考えると、トレンドが次々に変わることで、消費は永遠に続く仕組みになっている。人間の「新しさを求める心理」に訴えかけるもので、ブランド戦略の根幹でもある。技術業界でも、定期的にアプデーとして見えない技術を敢えてデザインで魅せることで、人間の新しい技術を活用しなければならないという欲を引き出している。

一方で、浪費は「これ以上は必要ない」という状態を超えた消費で、自分の意思で止められる。これは逆説的に「満たされているからこそ浪費ができる」ということになる。浪費できるのは、「余剰がある人」に限られるのだ。たとえば、高級ワインをコレクションする人は、もうこれ以上必要ない状態にもかかわらず、浪費している。ただし、それは本人にとっては「豊かさの証」かもしれない。つまり、「浪費」は満足と余裕の証であり、ある種のステータスシンボルになりうるのだ。

現代、この消費と浪費の境界が曖昧になる部分がある。デジタルの解釈だ。スマホゲームの課金、サブスクリプション、ガチャなどのデジタル商品がその事例だ。これは消費なのか浪費なのか? それを決めるのは個々人の価値観による。ある人にとっては「必要な消費」であり、別の人にとっては「完全に無駄な浪費」なのだ。この違いを生むのは、「満たされている」という感覚の有無だ。諸々考えると、その境界線には「観念的な強制」や「意識的な選択」による区別があるかも知れない。

スマホ課金を消費と捉えてみる。ゲームをすすめるにあたり、課金をしなければ強くならない。負けてしまう。楽しめないと考える。推し活をする際に、投げ銭や課金をしなければ、推しに迷惑をかけると思う。このような状態は、ネガティブな感情を避けるための出費で、観念的だ。課金しなければ「楽しめない」「負ける」「他の人に遅れる」といった強制的な観念が働いているのだ。そのため、自分の意志で選んでいるようでいて、実際には外部の仕組みによって操作されている状態にある。まさに「資本主義が生み出した消費者のループ」に当てはまる。

サブスクを消費と捉えてみる。サブスクで提供されているコンテンツは、個人にカスタマイズされ、毎回コンテンツがアップデートされる。提供側は、個人が消費できない量を日々量産する。一方で個人は、「見なければならない!」という脅迫観念に支配され、永遠に新しいコンテンツに追われる状態の中に溺れ、それを追い続けるのだ。NetflixやDisney+、Spotifyなどがまさに該当する。常に「最新のコンテンツ」を提供し、そのコンテンツに追われる繰り返しだ。

ガチャを消費と捉えてみる。ガチャの構造は、欲しいものが出るまで引き続ける構造だ。本来の「消費」の特徴として、「終わることがない」「常に不足感が生まれる」という点があり、それがガチャと完全に一致する。ガチャは、常に更新(新キャラ、新アイテム)され、引く度により強いもの、よりレアなものが登場する。そして、完全に満たされない。昔のガチャガチャは物理的に全てを購入することは可能だったが、今のガチャはデジタルによって仮想空間上に量産できる仕組みだ。無限にコンテンツが開発される。ガチャの課金は、何かを手に入れることで満たされるのではなく、次々に新しいものが登場することで「永遠に満たされない消費のループ」に入ってしまうのだ。つまり、資本主義者の「消費者モデル」として、理想的な形態である。

逆に、スマホ課金を浪費と捉えてみる。「浪費」という定義は、「必要ないと分かっていながらも支払うもの」として成立しているのがポイントだ。ゲームをするにあたり、課金をしなくても強くなる。だけど課金している。課金しなくても楽しめるが、課金している。推し活をしながら十分に楽しんでいるが課金をする。と捉える。しかし、ここには無理がある。「強制的な観念」はなく「意識的に選択」しているが、いわばそれはマインドをコントロールされている状態だと言わざるを得ない。スマホ課金の対象そのものによって、観念的な強制が既に生じているのだ。

サブスクを浪費と考えてみる。コンテンツは毎日毎回アップデートされる。全て見ることはできないが、「いつか使うかもしれない」と考えて課金しているが、実際には使わない状態は考えることができる。この場合、本人は「無駄と分かっている」ので、意思を持って払っていることになる。しかも、コンテンツそのものを個人の意思と完全に切り離して考えている。つまり、浪費に分類することができる。

ガチャを浪費と考えてみる。浪費は「これ以上は必要ない」という状態を超えた消費で、自分の意思でやめられる。と考えると、ガチャはやめた時点で消費から浪費になる特徴を持つ。「満たされているからこそ浪費ができる」ということになるからだ。すると浪費は、「余剰がある人」に限られる消費だ。となると消費をしている間中、浪費の状態ではあるが、どこかで消費の状態を続けなければいけないと考えているのであれば、それは観念的な強制になってしまう。ワインのコレクションと異なる部分は、アナログかデジタルの違いだ。アナログの場合は、モノとしての充足ができるが、デジタルは空間上に無制限に広がり充足されることがないのだ。

現代の浪費は、「必要ないと分かっていながらも支払うもの(意識的な選択)」として成立することに加え、「観念的な強制」の有無がポイントになるのだ。物質的な富は終わりがあるので、浪費することができるが、観念的なものは満たされることがないため浪費することがないのだ。

(ジャン・ボードリヤール)
ジャン・ボードリヤール(Jean Baudrillard)の消費社会論を考える。ボードリヤールは「消費は欲望を満たすためのものではなく、記号を消費する行為である」と主張し、まさに上記で考えた「消費が終わらない」ことを哲学的に説明している。

ボードリヤールの主張を踏まえると、「消費と浪費の違い」は、記号の消費という観点から整理ができる。彼によれば、現代の消費は「必要なものを手に入れる」行為ではなく、「象徴や価値を手に入れる」行為になっているという。例えば、ブランド品は本来の機能(服、靴、バッグ)を超え、「ステータス」「特別感」といった記号の価値を持つ。したがって、消費は「満たされる」ものではなく、常に新しい価値(記号)を求めて続くのだ。スマホ課金やガチャも、この「記号の消費」に完全に当てはまる。新しいキャラ、新しいスキン、新しいステータスを得ることで、満たされない欲望を無限に続けるからだ。しかもそれは物理的な世界の中ではなく、デジタル上というまさに観念的な世界での消費だ。

一方で浪費は、満たされた状態だからこそ、それを意識的にやめることができる。「これ以上、必要がないと理解しているからこそ、余剰として使えるもの」、つまり、記号に踊らされていない状態だ。だから、「サブスクを無駄と理解して支払う」なら、それは記号の消費から脱している状態なので浪費になるのだ。スマホ課金やガチャを盲目的に続けるのは消費だが、「このゲームに金を使うのは馬鹿馬鹿しいけど、楽しみのために払う」という自覚があれば、それはぎり浪費になるのではないか。

ボードリヤールは「資本主義の本質は、生産ではなく消費にある」とも述べている。これは、まさに「消費者という言葉が作られ、消費を続ける状態が維持される」ことと一致する。資本主義は「欲望を満たすために消費する」のではなく、「消費を続けさせるために欲望を作る」のだ。つまり、満たされないのだ。なぜなら「常に新しい記号(ブランド、限定品、推しグッズ、新キャラ)」が生まれ、それを手に入れた瞬間に次の欲望が生まれるからだ。これがデジタル空間になれば、その量産と創造は破壊的に拡大する。スマホ課金もサブスクも、常に新しい「体験」や「限定コンテンツ」を生み出し、消費を続けさせる仕組みそのものなのだ。

(商品の量産化)
これまでの議論を逆手に取れば、消費を仕掛けるマーケティング戦略が議論できる。ただ、なんとなく後ろめたい気持ちが残るが、敢えてそのシコリを度外視して整理しする。消費行動を加速させるには、大きく2つの方向性がある。日用品の習慣化と嗜好品の自己表現化だ。

日常品とは、食品、洗剤、スキンケア、歯磨き粉、シャンプー、サプリメント等だ。戦略的には、「これは毎日使うもの」と認識させることだ。そして、定期購入やセット販売を促すのだ。現在では、サブスクリプションモデルが普及している。Amazon定期おトク便やメンズスキンケアのサブスク等だ。また、ちょうど商品が枯渇するタイミングでリピート割引を提案する活動もみられる。更に、上手な方法は、習慣化をデザインすることだ。「毎日のルーティンに!」「朝起きたらこれ!」「寝る前に飲む!」等々だ。更に、「使い切りサイズ!」なども習慣を助長する企業側の戦略だ。

嗜好品の自己表現化は、ファッション、コスメ、香水、ガジェット、グルメ、高級車、白物家電などが該当する。ポイントは、「この所有や、この商品を使用している自分が特別」と認識させ、消費を続けさせることだ。簡単なものは、限定モデルやコラボレーション。SNSに映えることをはじめから計算して、その露出を運用する。自己表現に寄り添うように、「あなただけの特別」という感覚を提供する。製法や商品が出来るまでの物語を丹念に共有するのだ。

と概念的に整理して、やはり欠点が見えてくる。日常品であれ、嗜好品であれ、いかに認知させるか?の入口が大変だからだ。基本は体験と学習だと思う。人は知らないことには興味がでない。そこで、一定の認知プロセスから消費の流れを設計する取組がマーケティングでは頻繁に議論されているのだ。



コメントをどうぞ

CAPTCHA