
プレートの連鎖は考えにくい
2025年3月31日
早嶋です。
直近で以下の地震が発生している。SNSでは、何らかの大型地震を示唆しているが、プレート全体が地球上で連動することは極めて稀な状況で考えにくい。
(①3月25日10:43頃)
ニュージーランド付近
深さ:21km
規模:M6.7
(②3月28日15時20頃)
ミャンマー(インド付近)
深さ : 10km
規模 : M7.7
(③3月29日2時17頃)
北大西洋(大西洋中央海嶺中部)
深さ : 6km
規模 : M6.6
(④3月30日21時19頃)
南太平洋(トンガ諸島)
深さ : 不明
規模:M7.3
①3月25日のニュージランド付近、プレートはオーストラリアと太平洋プレートの境界。ここは、ニュージーランド周辺で両プレートが強く衝突し、沈み込みしており、常に地震が多発する地域だ。
②3月㉘日のミャンマー付近、プレートはインドプレートとユーラシアプレートの境界。ここは、インドプレートが北へ押し上げる力が集中し、過去にも大規模地震の多い場所だ。
③3月㉙日の大西洋中央海嶺、プレートは南アメリカプレートとアフリカプレートなどが広がる拡大境界(海嶺)。プレートが引き離されてできる拡大型のプレート境界で、通常は浅い地震が多く、M6〜7程度の地震がときどき発生する。
④3月30日のトンガ諸島、プレートは、太平洋プレートとインド・オーストラリアプレートの境界。ここは世界でも有数の沈み込み帯で、深く大規模な地震が頻発するエリアだ。
整理すると地震④(トンガ)と地震①(ニュージーランド)は太平洋プレート関連であるため、同じプレート上での活動とはいえる。しかし、数千km離れており、誘発等の直接的な因果関係は小さい。他の地震の②ミャンマーと③大西洋中央海嶺は異なるプレート境界で、連動性は基本的にない。
新規事業の旅164 脇毛とマーケティング
2025年3月24日
早嶋です。2300文字です。
脇毛に思う。脇の下に生える毛だ。主に思春期以降にホルモンの影響で生え始める第二次性徴のひとつだそうだ。脇毛の意味は、摩擦から皮膚を守る。汗の拡散と蒸発を助ける。フェロモンを拡散する。という3つの機能がある。
1つ目の機能は、腕の動きによって脇の下が擦れるのを防ぐ役割だ。次の機能は、脇にある汗腺の機能を助けるのだ。毛があることで汗が広がりやすくなり蒸発しやすくなるのだ。そして、汗腺の中のアポクリン腺から出る汗が脇毛に付着することで、におい(フェロモン)を拡散しやすくする働きがあるという。ただし、近年、文化的な観点から脇毛の処理が習慣化されている。
人間の祖先は、全身が毛に覆われていた時代があった。しかし進化の過程で「体温調整の効率化」や「病気のリスクを下げる」などの理由から、だんだん体毛が薄くなったと考えられている。それでも「ワキ・陰部・頭・眉」などは比較的濃い毛が残っている。
脇にあるアポクリン腺は、思春期以降に発達する。体臭のもとになる成分を出すのだ。脇毛は、この臭い物質を毛に付着させ、拡散させる。性的な成熟や魅力のサインとして進化上の役割があるのだ。それなのに美意識が高い人は脇毛を剃っている。矛盾しているのだ。自分の魅力を高めたいと思う人が、本来持ち合わせている機能を敢えてシャットアウトしているからだ。
文化の進化が本能を上回ったのだ。匂いは不快、ムダ毛は不潔やだらしなさ。と捉える感覚を、一定の人間は社会的な価値観として受け入れてしまった。本能的な価値観を打ち負かしたのだ。脇毛を処理して、敢えて香水やデオドラントで「人工的ににおいをコントロール」するのだ。そして、「視覚的に清潔感を演出」している。その自然の美しさに対して、人工的な美しさを洗練されたと捉えたのだ。
別の観念もある。例えば都市部などに過度に人が密集するエリアでは、体臭(フェロモン)が「不快なひおい」と受け取られてしまったのだ。そのためフェロモンよりも、デオドラント、或いは人工的な香水の香りに軍配を置いたのだ。
そして人の密集は、本来の自分ではなく、周りからみられた自分という観念的な像を作り上げてしまい美意識が高い人達が作り上げた美意識を追い求める愚行を選んでしまったのだ。もちろん本来の姿を受け入れる傾向もあるが、マイノリティになってしまっている。
人間の進化が人間の機能を手放す瞬間は他にも観察できる。子孫を残す本来の機能を抑制する避妊。素顔の視覚的な情報を抑制する化粧。体温調整を度外視するファッション等だ。
人間が何百万年もかけてDNAに刻んできた機能を、たかが数十年から数百年の文化でかき消す人間。進化の叡智を信じるべきなのか、一過性の流行という薄っぺらい文化を大切にすべきか。どちらが正しいのかはあなた次第であるが、それらを確かめる研究はあまりない。おそらくイグノーベル賞等の対象になるので誰も本気にしないのであろう。
もちろん、体毛の多さとテストステロンの相関や、体毛の処理と自己肯定感や美意識の関連性、脱毛産業やマーケティング視点での調査は結構ある。しかし、脇毛の有無と収入や知性、正確や魅力度が高まるのか?などの問いに対する研究はみるけることができなかった。
間接的な情報としては、美容や身だしなみと収入の相関などはいくつか見つけることができた。ビジネスパーソンの調査などでは、身だしなみに気を使うほうが年収は高いとされるが、あくまで「外見の意識」や「社会適応」の一環としての評価なので脇毛の有無と直接的な要因では無いと思う。
欧米や日本の都市部においては、脇毛を処理することが「常識」とされる文化も根強くある。これに従うか否かが、就職や対人印象に影響を与える場合もあるかもしれない。しかしそれは「本能的な機能を活かすかどうか」という議論とは無関係で、むしろ文化的圧力やマーケティング戦略による影響が大きいのだと考えた。
そう、脇毛を剃るように史受けたのはマーケティングの力なのだ。「剃らないと恥ずかしい」と感じるようにしむけることで、一定の企業の実入りが高まる背景があったのだ。
1900年代初頭のアメリカでは、脇毛を処理する文化はほぼ存在していない。しかし、1915年にジレット社が女性用カミソリを販売開始した。それと同時に「ノースリーブを美しく着こなすには、脇をきれいに」という広告が始まったのだ。雑誌・ファッションと連動して、「脇毛=見せてはいけないもの」という認識を定着させたのだ。そうやって「毛を処理する必要がある」というニーズを先に作ったのだ。
マーケティングのコンセプトとして、恥や美や清潔を再定義させたのだ。毛があるのは自然なことを、「不潔」とか「恥ずかしい」と再解釈させたのだ。体臭は個性で本能であることを、匂いは「不快」で「迷惑だ」としたのだ。そして外見は内面の一部であることを、外見は社会的な評価の全てとしてしまった。結果、洗脳された人間は「処理していないと不安になる状態」に追い込まれ、脱毛・除毛商品が生活必需品として売れるようになったのだ。
そしてある時から、脱毛することを自由の象徴のように逆説的な売り方を始めた。自分のための脱毛。好きな自分でいるために。聴いたことがある心地よいフレーズを並べて、今は自由を売るイメージが強い。更にだ。最近では、ファッションモデルが個性の象徴として脇毛を処理させないことで自然体を表すマーケティングも観察できる。
脇毛を剃る文化は、結果的に企業が作り上げた概念なのだ。その概念を満たすために、消費者はこぞって、「無駄な毛を処理する」という「膨大な無駄な消費」を続けるようになったのだ。実に謎の行動を取り続ける人間であるのだ。
中途半端な正義
2025年3月13日
早嶋です。
国際刑事裁判所(ICC)は、フィリピンの元大統領ロドリゴ・ドゥテルテ氏を、ダバオ市長および大統領在任中に行われた「麻薬戦争」における超法規的な殺人や人権侵害に関与した疑いで逮捕し、オランダのハーグに移送た。 ICCは、ジェノサイドや人道に対する罪など、最も重大な国際犯罪を扱う国際的な裁判所だとされる。各国の司法制度がこれらの犯罪を適切に追及できない場合に介入するのだ。 フィリピン政府がドゥテルテ氏の行為に対して適切な法的措置を講じていないと判断したのだ、ICCは独自の捜査を開始し、逮捕に至った。この逮捕は、ドゥテルテ氏の「麻薬戦争」において数千人が殺害されたとされる事件に対する国際的な責任追及の一環で、被害者やその家族にとっては正義への重要な一歩と受け止められている。一方で、「麻薬戦争」で被害を受け続けたた一般市民からすると英雄であるドテルテの逮捕には反対の声があり、フィリピン国内では賛否両論の状態だ。
ICCについて思い調べた。上記が正義ならば、なぜに北朝鮮に目を向けないのかだ。調べてみると、政治的、法的な理由があった。ずばり北朝鮮はICCの管轄外なのだ。そして、フィリピンは過去にICCの加盟国であり、ドゥテルテ政権の人権侵害について捜査を受ける根拠があったのだ。しかし、北朝鮮はICCの加盟国ではない。ICCは加盟国の犯罪、または国連安全保障理事会(UNSC)の決議を受けた場合のみ捜査権を持つ。そのためICC単独では北朝鮮に対する法的な管轄権を持たないのが大きな理由だ。
もし、ICCが北朝鮮の犯罪を捜査するには、国連安全保障理事会(UNSC)の承認が必要となる。しかし、中国とロシアが北朝鮮を擁護し、拒否権を行使する可能性が非常に高いため、ICCによる正式な調査が進められないのだ。ドゥテルテの場合、フィリピンは国際社会との関係を持ち、国内にICC加盟国の協力者がいたため、圧力をかける余地があった。一方で、北朝鮮は完全な独裁体制で、国内での逮捕は不可能なのだ。さらに、金正恩は他国へほとんど渡航せず、身柄を拘束するチャンスがほぼなかった。今回、ドテルテは香港から家族で帰国する際に身柄を拘束されている。ドテルテ自身も考えが甘かったのだ。
何人かは茶番だと思わなかっただろうか。ICCの今回の動きに対して。
ICC(国際刑事裁判所)が北朝鮮、中国、ロシアのような国に対して直接手を下せないのは、現実的な国際政治の力関係が影響しているからだ。強国や独裁国家が加盟していないために、ICCの影響が及ばないというのは、まさにICCの限界であり、国際法の矛盾だ。
正義と矛盾は今後もなくなることはないだろう。ICCのような組織は、「普遍的な正義」を掲げているが、実際には「加盟国の合意と協力」がなければ機能しない。そのため、欧米や一部の国には影響を及ぼせても、中国やロシア、北朝鮮のような独裁国家にはほとんど何もできない。さらに、アメリカもICCの管轄を拒否しており、自国民(特に軍人)をICCで裁かれることを認めていない。
これは国連も同じだ。大国には無力なのだ。国連(UN)も、大国(特に安全保障理事会の常任理事国)は拒否権を持っており、実際には国連の介入を封じ込めることができる。たとえば、ロシアのウクライナ侵攻では、ロシアが拒否権を行使したため、国連は何もできず、国際的な圧力は経済制裁などにとどまっている。常任理事国は、ロシアにまるソビエト連邦の時の権利なので、本来はその権利を一旦剥奪してゼロベースで議論すべきだが、常任理事国がそのような美味しい権利を手放すことなく、今もその椅子に座っている。国連は見た目だけの組織であり機能しないのだ。
従い、国際組織は結果的に都合が良い相手にしか裁きをできなくなる。ICCも同じなのだ。権力基盤の弱い国や、欧米諸国と関係の深い国の指導者しか裁けない。例えば、アフリカ諸国の元指導者や、フィリピンのドゥテルテのようにICC加盟国であった国の指導者には裁きの手が及びやすい。一方で、中国やロシアの指導者を裁くとなると、軍事力や外交の壁に阻まれるため、ICCは事実上何もできない。
従い、何かの違和感が強烈に湧き上がったのだ。本当に裁かれるべき指導者たちが野放しになっている状況は、多くの人々にとって言語化できない要因だ。もしICCが「本当に公平な国際法機関」なら、ウイグル問題やロシアの戦争犯罪、北朝鮮の人権弾圧などを率先して裁くべきだからだ。しかし、現実には国際政治の壁があり、裁ける相手だけを裁いているということだ。
ICCのような国際組織は正義を掲げているが、結局は国際政治の力関係に縛られている。強国や独裁国家が加盟しない限り、ICCの権力は及ばず、本当に裁かれるべき指導者は「特権階級」として逃げ続けることができる。この状況が続く限り、ICCが「公平な正義の機関」ではなく、「都合のいい国だけを裁く組織」と見られるのは避けられないだろう。実現するには、国際社会が本気で大国の免責をなくす仕組みを作るしかない。が、それが現実的に可能かどうかは…無理だろう。
新規事業の旅163 問題設定の大切さ
2025年3月12日
早嶋です。3200文字です。
伝統的な組織や変化を避ける企業の問題点は、「問題そのものの設定が曖昧であること」だと思う。多くの企業は、「売上100億を目指す」「DXを推進する」「経常利益10億達成」など、一見それっぽいでも実は極めて抽象的な目標やスローガンを掲げる。しかし、実際にどう達成するのかという具体的なロードマップが書けない。それは問題の所存が不明瞭だからだ。従い、問題を特定することなく従来の流れで行動するので現場はそれっぽく忙しいし、取り組んでいると勘違いする。しかしいよいよ大変になってきた。時代の変化もさることながら、新たなテクノロジーの活用により今まで想定していないライバルが進出している。
今すぐ、現状のビジネスモデルがどの程度維持できるのか、新たな収益源をどこで確保するのかを具体的に分析して企業の方針として明確にすべきなのだ。問題の特定ができていない企業の特徴は、目標を掲げることで計画を終えている。例えば、2030年に売上100億を達成する。等だ。これではその内訳の定義がわからないから今との比較ができない。つまり問題が設定できないのだ。問題は、現状と時間軸におけるありたい姿(目標)とのギャップだ。
更に問題の特定ができていない企業は、現状分析も甘い。例えば、現在80億の売上があるとした場合、その売上を達成してきたメカニズムの把握や、複数の事業において何が問題になるかを整理しきれていない。それらを理解するためには、事業事の売上推移や今後の見通しを分析するのだ。その際、自社分析以外に、市場や競合の変化を理解して、3年、5年先を予測する際には、それ以外のマクロ的な分析を加えるのだ。その結果、現状80億の事業が、A事業(50億)、B事業(20億)、C事業(10億)などに細分化され、それぞれにどのような問題があるかが見えてくるのだ。
他に観察するのは、抽象的かつ定性の議論が多いことだ。時間軸の設定や定性的な目標を達成した際の具体的なイメージや定量的な表現が乏しいのだ。例えば、「DXを推進することで利益を獲得する!」というような表現だ。しかし、DXをどのエリアで推進するのか?それによって、1)売上(単価とか、客数とかを増やす)を上げるのか?2)今かけている費用を●%に削減するのか?3)売上や費用は変わらないが、従業員の精神的な負担をけいげんするのか?などのフォーカスがないのだ。
そして昨今、新たに追加された概念が新規事業だ。高い目標を掲げたものの、これまでの経営を通じて、なんとなく複数の事業が成熟期に達していることを察している。そのため例えば目標100億に対して不足する売上があることをなんとなく把握しているのだ。そこで我が社も新規事業!とスローガンを出すのだ。しかし、実際に新規事業で5億獲得するのか?10億獲得するのか?の定義はない。さらに、新規事業の領域や方針がなく、現場に新規事業という言葉がまるねげされる。少なくとも経営陣は新規事業のドメインを明確に決めることなどはすべきなのだ。
実際に問題解決能力がある企業で、実績を出している企業は以下のような取組をする。同じ2030年の売上100億に対して、A事業50億は40億に縮小(▲10億)。B事業20億は現状維持(±0)。C事業10億は30億に拡大(+20億)。不足する10億は新規事業で補う。と事業事に問題を切り分けている。
更に、売上のギャップと同時に、人員計画を合わせて明確に示し、人員のギャップがどのようになるかを示すべきだ。仮に事業毎に売上のギャップを明確にできたとしても、その売上を人材を中心にどのように満たしていくのか?という前提を明らかにすることが大切なのだ。
2030年の売上を現状の80億から100億にする。人員は現在800人で、人員を大きく増加させないで800人で実現する。という前提は経営が示すべきだ。すると、縮小するA事業は人員減少。新規事業の開発は何人必要か?A事業の人員を単純に新規事業に当てはめても適正はそもそもあるか?などが議論できるようになる。その議論の方向性を明確にするために整理するのだ。
A事業は50億を500人で対応できるが、この内新規事業に取組む人員を加味しながら100人減らして400人で40億の売上を作れるたいせにする(▲100人)。B事業は20億を100人で取り組んでいるが、人数は現状を維持する。ただし、新規事業を行うポテンシャルの人員は入れ替えをする必要がある(±0人)。C事業は10億を50人で対応しているが、20億の売上増に伴い人員を50名増やして100名体制にする(+50人)。更にスタッフ部門が150人おり、2030年は組織をスリム化して100人で運営する(▲50人)。そして新規事業の専属社員を100名確保する。
というように2030年の数字の内訳と、現事業の分析とその方向性、そしてそこに対しての人員計画を明確にすることで、各事業部と機能部と新規事業の問題がより明確になるのだ。
A事業は40億まで売上は減少させるが、現状の500人の内、新規事業を行うポテンシャルのある人員を100名選び、残った400人で40億の売上を維持獲得するためにはどうするか?という問題になる。
B事業は20億を現行の100人で行うが、その中で新規事業メンバを抽出して入れ替える。何人を入れ替え、新たに入ってきたメンバを教育しながら20億を維持するためにはどうするか?という問題になる。
C事業は50人で10億の売上から他部門から獲得した追加50名のメンバと30億の売上を実現するためにはどうするか?という問題になる。
スタッフ部門は80億のスタッフ事務機能を150人で行っている体制から100億の管理事務機能を100人で行うためにどうするか?というう問題になる。
新規事業は新メンバ100人で2030年までに売上を20億獲得するにはどうするか?という問題になる。
このように、売上目標を細分化させた後は、それに対して人員計画を明確に設計することが「実行可能な戦略」につながるのだ。伝統的な組織や変化を避ける企業は「売上を伸ばす」「新規事業を作る」といった目標を掲げて終わるだけだが、実行し成果を出す組織は、目標を細分化させ、事業毎やスタッフ部門ごとや新規の取組事に売上や利益のギャップを示す。さらに、それに対応するリソース(人員・組織体制)をどのように変化させるかを定量的に設計することで問題を明らかにするのだ。
売上と人的リソースのバランスを同時にみることで、縮小事業のリストラクチャリング、削減部門のリストラクチャリング、拡大事業のリストラクチャリング、新規事業の構築などを全社横櫛で考えたうえでの人員の議論ができる。さらに、社員の年齢や能力を加味しながら、自然退職と新規採用(新人・中途)を連動させたリソースの確保が考えられる。
当たり前だがこの問題の定義がないので、新規事業の目標だけ掲げて人員計画がなく、新規を取組む人員がいなくて成果が出ないのだ。縮小する事業の人員計画を示さないから、余剰人員が発生しコスト増になるのだ。さらに、間接部門に対してはスリム化をせずにそのまま維持するため収益性を悪化させる。当然に売上と人員の計画があれば、DXを活用して本店と事業部と視点の事務と総務機能を●%削減、●人で行う体制から●人でできる仕組みをデジタルを使って実現する。と目的が明確になり、スローがんではなく成果がでるか、でないかの取組にできるのだ。
「変化を求めない企業」「変化できない企業」は、問題を定義していない。DXや新規事業という言葉をならべることはできる。しかし、今あるビジネスの本当の姿を冷静に分析し、それを突破する戦略を持つ企業になる意思がないのだ。
新規事業の旅162 単一と統合の生態系
2025年3月10日
早嶋です。約3000文字です。
Skypeは、サービスを2025年内に終了するという。マイクロソフトは当時、Skypeの買収に多額の投資を行った。メッセンジャーやVOIPを活用した音声サービスの先駆者だったSkype。当時は「Skypeしよう!」と動詞にもなっていたと記憶する。単一のテクノロジーは残りにくい。現在では統合され、マイクロソフトもチームズに技術統合したのだろう。単体で一定の成長を遂げた後は、常にセキュリティや保守メンテナンスの効率が悪くなりサービスを終了するのだ。
2011年当時、マイクロソフトはSkypeを約85億ドルで買収した。SkypeはVOIP(Voice over IP)の先駆者で、法人個人向けのオンライン通話の標準的なツールだった。しかし、その後の市場変化とマイクロソフトの戦略転換により、Skypeの役割が薄れていく。その理由はいくつか考えられる。
まずは、サブスクリプションモデルへの統合戦略だ。マイクロソフトはOffice 365(現 Microsoft 365)を軸に、企業向け統合ソリューションを提供する方向に戦略シフトした。Skypeの技術は、ビジネス向けのTeamsに統合され、単独サービスとしてのSkypeの価値は相対的に低下したのだ。Teamsは、ビジネス向けチャット、音声通話、ビデオ会議、ドキュメント共有、タスク管理などの機能を統合したツールで、企業のコミュニケーションプラットフォームとして急成長している。特に2019年12月の武漢熱、Covit19 以降、リモートワークが世界中で急速に普及し、Skype for BusinessはTeamsに完全移行していくのだ。
セキュリティやメンテナンスに対しての課題もあっただろう。SkypeはもともとP2P(ピア・ツー・ピア)技術を基盤としていたが、クラウドベースの技術と比較すると、メンテナンスやセキュリティ面での課題があったと思う。Teamsでは、Azureクラウド上での運用が可能となり、より一元的な管理ができるようになった。
競合環境の変化もあるだろう。Skypeが買収された当時は、ZoomやSlackのような競合はまだ目立っていなかった。しかし、ここ数年でZoomがビデオ会議市場を席巻し、SlackやDiscordもテキスト・音声コミュニケーションツールとして台頭した。Skypeのブランド力は相対的に低下し、マイクロソフトも、競争力のあるTeamsにリソースを集中させる方が合理的だったのだ。もちろん個人向けの市場でも変化が激しい。WhatsAppやFacebook Messenger、LINEなどの無料通話アプリの台頭が、Skypeの影響力を弱めていった。かつての「Skypeしよう!」というフレーズは、今では「Zoomする?」とか「LINEでいい?」とかに置き換わっていたのだ。
マイクロソフトは、Skype単独の製品を維持するよりも、その技術をTeamsやその他のMicrosoft 365のエコシステムに統合し、より効率的に活用する方が戦略的に合理的だと判断したのだ。Skype単体の維持にはコストやセキュリティリスクが伴うため、特にビジネス向けでは、Teamsへの一本化が自然な流れだったのだ。
統合と淘汰のサイクル。今回のSkypeのようなアプリやデジタルサービスに限らず、多くの業界で観察される現象だ。技術やサービスが単独で成長し、ある程度市場で存在感を持った後、大手の統合システムやエコシステムに組み込まれる流れだ。
Skypeとチームズのように、企業は単体の製品よりも、統合されたプラットフォームやエコシステムを持つ方が強い競争力を発揮する。AmazonはECで力を発揮して、その利益を周辺事業に投資を続けた。今では、AWS、Prime、Audibleなど、サービスを束ねることで法人と個人のサービスのリテンションを高めている。Googleもだ。検索サービスでの収益を、Gmail、Youtube、Driveと広げ、統合した顧客体験を提供することでユーザーの生活に根づいた収益をあげている。個別に存在するよりも、エコシステムの一部として組み込まれた方が競争力がより強固なものとなるのだ。
つまり、単独の技術やサービスは、持続的な競争優位を構築するのが難しいということだ。独立系企業が競争に耐えるには、「持続的な差別化」が必要だが、技術の進化や市場の変化が相当早い昨今、一定以上の品質を提供することができた後は、差別化は維持しにくくなる。
この背景には、業界全体に対して、ファイナンスを武器に成長する文化が当たり前になったとも言える。大手企業はスタートアップと協業を繰り返し、時にはマイノリティ出資をして新商品の開発や不足する経営資源を高速で補っている。あるいは、その事業ごとグループ傘下に加えることで、時間を買った成長を遂げるケースも珍しくない。そして一度資本政策による成長を経験した企業は「成長の手段としての買収」を加速させるのだ。
支払い方法に対しては、個別の商品を販売するのではなく、統合サブスクリプションの中に組み込むことで収益が安定することを学んだ。アドビは単体のソフト売りから今では、Adobe Creative Cloudに統合している。マイクロソフトも上述の通りMicrosoft 365に統合。NetflixやSpotifyは、コンテンツの単体販売ではなく、定額モデルで収益を安定化させている。
単体のサービスでは、ユーザーの選択が都度あり、その度に獲得コストが必要だった。統合プラットフォームは、とりあえず全てのサービスがあるので、一度獲得した顧客に対して、継続的な体験を提供できれば、退会することはない。そのため、企業としては、安定的な収益と確実な収益計画が作れる。これは予算化も明確で、数年における設備投資や事業の強化がより正確になるため企業のファイナンスもぐっと強化されていく。
統合されたサービスは、セキュリティや規制対応のコストも下げることができる。経営企画から、人材やサービスの調達、製造や流通、販売やマーケティング、その後のカスタマーサクセスまで。機能部隊は一部、あるいは全部を共通化することで運営のコストも高効率にまわせることがわかってきた。この流れは、今後もあらゆる業界で発生するのだ。特にまだ統合が進んでいない業界においてもだ。
生成AI・クラウドは、AIスタートアップがGoogle、Microsoft、Amazonに吸収されるだろう。電池・再生可能エネルギーは、EVメーカーや電力会社が蓄電池企業を買収する方向性が加速するだろう。ヘルステックは、AppleやGoogleが医療データ企業を統合するだろう。ロボティクスはTeslaやBoston Dynamicsのような企業がシナジーを求めて統合するだろう。そして、宇宙ビジネスはSpaceXやAmazon(Blue Origin)が衛星通信企業を取りむだろう。
Skypeのサービス廃止を事例に、世の中の単独サービスが統合されることを議論してきた。あなたは統合される側、する側、どちらの立場でプレーしているだろうか?
契約後のフォローが営業の成否を分ける!(その1)
2025年3月6日
高橋です。
私がコンサルティングをしている『営業プロセス研修』のエッセンスを、毎回お伝えしています。
今月のテーマは「契約後のフォローが営業の成否を分ける!(その1)」です。前回までクロージングについてお伝えしました。今回はその次のプロセス、契約後についてです。営業にとって、契約が取れた瞬間は大きな達成感を感じるものです。しかし、契約はゴールではなく、むしろスタート地点。契約後のフォロー次第で、「単発の取引」になるか、「長期的な関係」になるかが決まるのです。
契約後のフォローを怠ると、お客様の満足度が下がり、クレームにつながることもあります。逆に、適切なフォローを行えば、リピーターや紹介による新規顧客の獲得が期待できます。今回は、契約後のフォローで重要なポイントを解説します。
1. なぜ契約後のフォローが重要なのか?
契約を取ることばかりに集中し、契約後のフォローをおろそかにしてしまう営業担当者は意外と多いものです。しかし、契約後のフォローをしっかり行うことで、次のようなメリットがあります。
顧客満足度が向上し、継続利用につながる
リピーターになり、追加注文やアップセルの機会が増える
紹介をもらいやすくなり、新規顧客の獲得につながる
トラブルやクレームを未然に防げる
お客様が「この営業担当にお願いして良かった!」と思えるような対応を心がけることが大切です。そのために押させるべきポイントは次の5つです。
2. 契約後のフォローで押さえるべき5つのポイント
① 初期対応をスピーディーに!最初の印象がカギ
契約が成立した直後は、お客様の期待が最も高まっているタイミングです。この時点で迅速かつ丁寧な対応をすると、お客様の信頼を得やすくなります。
例えば、
すぐにお礼の連絡を入れる(メール・電話・訪問)
納品・導入のスケジュールを明確に伝える
手続きや準備が必要な場合は、分かりやすく説明する
「契約を取ったら終わり」ではなく、最初の対応がその後の関係を左右することを意識しましょう。
② 定期的なコンタクトで不安を解消する
契約後、お客様は「本当にこの商品・サービスで大丈夫かな?」という不安を感じることがあります。放置すると、クレームや解約のリスクが高まります。
「導入後〇日以内」に連絡を入れる (例)「その後、ご不明点やお困りごとはございませんか?」
「定期フォローのスケジュール」を決める (例)導入後1週間、1か月、3か月ごとに連絡する
訪問やオンラインミーティングを活用する
お客様の状況を確認し、小さな不安や不満を早期に解消することが大切です。
今回はここまでです。次回は5つのポイントの残り3つをお伝えします。どうぞお楽しみに!
営業プロセス、営業研修、人材育成、セールスコーチなどをご検討の経営者・経営幹部・リーダー・士業の方はお気軽に弊社にご相談ください。
新規事業の旅161 ストア派哲学
2025年2月27日
早嶋です。約2000字です。
哲学者のエピクテトスの考え方は、「コントロールできること/できないことを明確に分ける」という考えが根底にある。そしてストア派哲学の核心になっている。彼の思想は、現代にも通じる実践的な哲学だと私は思う。特に自己責任の捉え方において有益だ。
(エピクテトスの教え)
エピクテトスは『人生談義』の中で、次のように述べている。私たちの力の及ぶものと及ばないものを区別せよ」と。これは、自分で変えられることに集中し、変えられないことは気にしないという教えだ。自分でコントロール出来ることに対して、その範囲内で自由に振る舞うことが、ストイックの語源にもなっている通り、一部難しい哲学と思われる傾向があるが、私は支持してる。
例えば、何かの試験やプロジェクトに失敗した場合に次のように考える。コントロールできることは、自分の努力で、事前準備で、取り組み方そのものだ。一方で、コントロールできないことは、他者の評価で、環境の影響や、運そのものだ。このような考えに基づくことで、「結果がどうであれ、自分ができる限り最善を尽くしたのなら、それでよし」と受け止めることができ、気にしないのだ。
更に、エピクテトスの哲学では、失敗しても「自分がダメだった」とは考えない。なぜなら、結果は外部要因にも左右されるため、自分だけの責任ではないからだ。したがって、必要以上に落ち込むことなく、次の行動に意識を向けることができるのだ。もちろん、この考えの前提には、自分でコントロールできることに対して本気で望んでおく必要はあることは言うまでもない。
この考え方は、現代のビジネスやスポーツ、個人の成長にも応用できると思う。交渉やプレゼンの結果は相手の反応次第だ。自分の準備と伝え方に集中すればよいのだ。 スポーツ等の試合の勝敗も、相手の実力や審判の判定にも影響される。自分のパフォーマンスを常に磨くことに集中するのだ。そして人間関係。そもそも他人の態度はコントロールできない。常に自分の誠実な振る舞いにフォーカスすればよいのだ。
このように、「自分のコントロールできる部分に集中する」というストア派の考え方を身につけると、無駄に悩んだり、自責しすぎることが減り、より合理的で精神的に安定した生き方ができるようになるのだ。
(ストア派はマイナーなのか?)
ストア派哲学は、マイナーな存在と聴いたことがあるが、逆に他のメジャーとされる哲学の思想はどうなのだろう。
アリストテレスは徳の哲学だ。「バランスが大事!感情も大切にしつつ、人として成長しよう」という主張がメインだとした場合、ストア派は「感情は邪魔だから抑えよう」とする。アリストテレスは「感情とうまく付き合って、人間としての徳を磨こう」と考えている。
プラトンはイデア論だ。「この世界は不完全!本当の理想を求めよう」という主張だ。ストア派は、「今ある現実を受け入れる」のが基本だ。しかしプラトンは「もっと完璧な世界があるはず」と理想を追い求める。
宗教になるがキリスト教の思想は、「運命は神が決めるもの。信仰で救われる」だ。ストア派も「運命を受け入れよう」と言うけど、キリスト教は「神の計画がある」と考える。ストア派はあくまで「理性」で人生を乗り切ろうとするのが違いだろう。
デカルトは合理主義だ。「理性を使えば、世界をもっと理解できる」と。ここにストア派は「コントロールできないものを気にしない」が、合理主義は「いや、もっと世界を分析して理解しよう」と考えている。
ロック&ヒュームは経験主義で知られる。「知識は経験から得られる」と。ストア派は「どう考えるか(内面)」を重視するが、経験主義は「外の世界で経験を積むことが大事」としている。
そしてサルトルの実存主義は、「人生の意味は、自分で決めるもの」だ。ストア派は「運命を受け入れる」という考えに対して、実存主義は「意味がないなら、自分で作ればいいじゃん」と考えるのだ。
となるとストア派一辺倒でもなさそうだ。私の場合。ストア派は「運命は決まってるし、変えられないことは気にしない。自分の心を鍛えよう」だ。この考えは素敵だが、メジャー哲学の教えのように、「いやいや、もっと現実を変えたり、理想を求めたり、知識を増やしたり、神を信じたりしようよ」ってのも良いと思う。ただ、色々整理して考えたことは、ストア派は「どうやってストレスなく生きるか」にフォーカスした哲学なのでは無いか。と思う。そして、他のメジャーな哲学は「どうやって世界をよりよくするか」を考える傾向が強いのでは。だからこそ、ストア派はちょっと独特で、メジャーな思想とは違う立ち位置にあると解釈されているとまとめることができるかも知れない。
新規事業の旅160 消費と浪費
2025年2月26日
早嶋です。4200文字です。
消費と浪費について考える。その際のポイントは「満たされるかどうか」だと思う。
(意識的な選択と観念的な強制)
消費は、必要に基づいているというよりも、観念的なものであり、終わることがない。これは、資本主義の構造そのものに組み込まれている概念だ。消費を続けることで経済が回り、資本家は利益を得る。そのため、「消費者」という概念が生まれ、それが常に消費を促す仕組みを生んでいる。2011年発売の「暇と退屈の倫理学」國分功一郎著を読んで刺激を得た。哲学的なアプローチの著書だが、事業に活用でできる概念だ。
たとえば、ファッション業界を考えると、トレンドが次々に変わることで、消費は永遠に続く仕組みになっている。人間の「新しさを求める心理」に訴えかけるもので、ブランド戦略の根幹でもある。技術業界でも、定期的にアプデーとして見えない技術を敢えてデザインで魅せることで、人間の新しい技術を活用しなければならないという欲を引き出している。
一方で、浪費は「これ以上は必要ない」という状態を超えた消費で、自分の意思で止められる。これは逆説的に「満たされているからこそ浪費ができる」ということになる。浪費できるのは、「余剰がある人」に限られるのだ。たとえば、高級ワインをコレクションする人は、もうこれ以上必要ない状態にもかかわらず、浪費している。ただし、それは本人にとっては「豊かさの証」かもしれない。つまり、「浪費」は満足と余裕の証であり、ある種のステータスシンボルになりうるのだ。
現代、この消費と浪費の境界が曖昧になる部分がある。デジタルの解釈だ。スマホゲームの課金、サブスクリプション、ガチャなどのデジタル商品がその事例だ。これは消費なのか浪費なのか? それを決めるのは個々人の価値観による。ある人にとっては「必要な消費」であり、別の人にとっては「完全に無駄な浪費」なのだ。この違いを生むのは、「満たされている」という感覚の有無だ。諸々考えると、その境界線には「観念的な強制」や「意識的な選択」による区別があるかも知れない。
スマホ課金を消費と捉えてみる。ゲームをすすめるにあたり、課金をしなければ強くならない。負けてしまう。楽しめないと考える。推し活をする際に、投げ銭や課金をしなければ、推しに迷惑をかけると思う。このような状態は、ネガティブな感情を避けるための出費で、観念的だ。課金しなければ「楽しめない」「負ける」「他の人に遅れる」といった強制的な観念が働いているのだ。そのため、自分の意志で選んでいるようでいて、実際には外部の仕組みによって操作されている状態にある。まさに「資本主義が生み出した消費者のループ」に当てはまる。
サブスクを消費と捉えてみる。サブスクで提供されているコンテンツは、個人にカスタマイズされ、毎回コンテンツがアップデートされる。提供側は、個人が消費できない量を日々量産する。一方で個人は、「見なければならない!」という脅迫観念に支配され、永遠に新しいコンテンツに追われる状態の中に溺れ、それを追い続けるのだ。NetflixやDisney+、Spotifyなどがまさに該当する。常に「最新のコンテンツ」を提供し、そのコンテンツに追われる繰り返しだ。
ガチャを消費と捉えてみる。ガチャの構造は、欲しいものが出るまで引き続ける構造だ。本来の「消費」の特徴として、「終わることがない」「常に不足感が生まれる」という点があり、それがガチャと完全に一致する。ガチャは、常に更新(新キャラ、新アイテム)され、引く度により強いもの、よりレアなものが登場する。そして、完全に満たされない。昔のガチャガチャは物理的に全てを購入することは可能だったが、今のガチャはデジタルによって仮想空間上に量産できる仕組みだ。無限にコンテンツが開発される。ガチャの課金は、何かを手に入れることで満たされるのではなく、次々に新しいものが登場することで「永遠に満たされない消費のループ」に入ってしまうのだ。つまり、資本主義者の「消費者モデル」として、理想的な形態である。
逆に、スマホ課金を浪費と捉えてみる。「浪費」という定義は、「必要ないと分かっていながらも支払うもの」として成立しているのがポイントだ。ゲームをするにあたり、課金をしなくても強くなる。だけど課金している。課金しなくても楽しめるが、課金している。推し活をしながら十分に楽しんでいるが課金をする。と捉える。しかし、ここには無理がある。「強制的な観念」はなく「意識的に選択」しているが、いわばそれはマインドをコントロールされている状態だと言わざるを得ない。スマホ課金の対象そのものによって、観念的な強制が既に生じているのだ。
サブスクを浪費と考えてみる。コンテンツは毎日毎回アップデートされる。全て見ることはできないが、「いつか使うかもしれない」と考えて課金しているが、実際には使わない状態は考えることができる。この場合、本人は「無駄と分かっている」ので、意思を持って払っていることになる。しかも、コンテンツそのものを個人の意思と完全に切り離して考えている。つまり、浪費に分類することができる。
ガチャを浪費と考えてみる。浪費は「これ以上は必要ない」という状態を超えた消費で、自分の意思でやめられる。と考えると、ガチャはやめた時点で消費から浪費になる特徴を持つ。「満たされているからこそ浪費ができる」ということになるからだ。すると浪費は、「余剰がある人」に限られる消費だ。となると消費をしている間中、浪費の状態ではあるが、どこかで消費の状態を続けなければいけないと考えているのであれば、それは観念的な強制になってしまう。ワインのコレクションと異なる部分は、アナログかデジタルの違いだ。アナログの場合は、モノとしての充足ができるが、デジタルは空間上に無制限に広がり充足されることがないのだ。
現代の浪費は、「必要ないと分かっていながらも支払うもの(意識的な選択)」として成立することに加え、「観念的な強制」の有無がポイントになるのだ。物質的な富は終わりがあるので、浪費することができるが、観念的なものは満たされることがないため浪費することがないのだ。
(ジャン・ボードリヤール)
ジャン・ボードリヤール(Jean Baudrillard)の消費社会論を考える。ボードリヤールは「消費は欲望を満たすためのものではなく、記号を消費する行為である」と主張し、まさに上記で考えた「消費が終わらない」ことを哲学的に説明している。
ボードリヤールの主張を踏まえると、「消費と浪費の違い」は、記号の消費という観点から整理ができる。彼によれば、現代の消費は「必要なものを手に入れる」行為ではなく、「象徴や価値を手に入れる」行為になっているという。例えば、ブランド品は本来の機能(服、靴、バッグ)を超え、「ステータス」「特別感」といった記号の価値を持つ。したがって、消費は「満たされる」ものではなく、常に新しい価値(記号)を求めて続くのだ。スマホ課金やガチャも、この「記号の消費」に完全に当てはまる。新しいキャラ、新しいスキン、新しいステータスを得ることで、満たされない欲望を無限に続けるからだ。しかもそれは物理的な世界の中ではなく、デジタル上というまさに観念的な世界での消費だ。
一方で浪費は、満たされた状態だからこそ、それを意識的にやめることができる。「これ以上、必要がないと理解しているからこそ、余剰として使えるもの」、つまり、記号に踊らされていない状態だ。だから、「サブスクを無駄と理解して支払う」なら、それは記号の消費から脱している状態なので浪費になるのだ。スマホ課金やガチャを盲目的に続けるのは消費だが、「このゲームに金を使うのは馬鹿馬鹿しいけど、楽しみのために払う」という自覚があれば、それはぎり浪費になるのではないか。
ボードリヤールは「資本主義の本質は、生産ではなく消費にある」とも述べている。これは、まさに「消費者という言葉が作られ、消費を続ける状態が維持される」ことと一致する。資本主義は「欲望を満たすために消費する」のではなく、「消費を続けさせるために欲望を作る」のだ。つまり、満たされないのだ。なぜなら「常に新しい記号(ブランド、限定品、推しグッズ、新キャラ)」が生まれ、それを手に入れた瞬間に次の欲望が生まれるからだ。これがデジタル空間になれば、その量産と創造は破壊的に拡大する。スマホ課金もサブスクも、常に新しい「体験」や「限定コンテンツ」を生み出し、消費を続けさせる仕組みそのものなのだ。
(商品の量産化)
これまでの議論を逆手に取れば、消費を仕掛けるマーケティング戦略が議論できる。ただ、なんとなく後ろめたい気持ちが残るが、敢えてそのシコリを度外視して整理しする。消費行動を加速させるには、大きく2つの方向性がある。日用品の習慣化と嗜好品の自己表現化だ。
日常品とは、食品、洗剤、スキンケア、歯磨き粉、シャンプー、サプリメント等だ。戦略的には、「これは毎日使うもの」と認識させることだ。そして、定期購入やセット販売を促すのだ。現在では、サブスクリプションモデルが普及している。Amazon定期おトク便やメンズスキンケアのサブスク等だ。また、ちょうど商品が枯渇するタイミングでリピート割引を提案する活動もみられる。更に、上手な方法は、習慣化をデザインすることだ。「毎日のルーティンに!」「朝起きたらこれ!」「寝る前に飲む!」等々だ。更に、「使い切りサイズ!」なども習慣を助長する企業側の戦略だ。
嗜好品の自己表現化は、ファッション、コスメ、香水、ガジェット、グルメ、高級車、白物家電などが該当する。ポイントは、「この所有や、この商品を使用している自分が特別」と認識させ、消費を続けさせることだ。簡単なものは、限定モデルやコラボレーション。SNSに映えることをはじめから計算して、その露出を運用する。自己表現に寄り添うように、「あなただけの特別」という感覚を提供する。製法や商品が出来るまでの物語を丹念に共有するのだ。
と概念的に整理して、やはり欠点が見えてくる。日常品であれ、嗜好品であれ、いかに認知させるか?の入口が大変だからだ。基本は体験と学習だと思う。人は知らないことには興味がでない。そこで、一定の認知プロセスから消費の流れを設計する取組がマーケティングでは頻繁に議論されているのだ。
新規事業の旅159 車社会
2025年2月24日
早嶋です。約3500字です。
日本社会は、依然として自動車に依存する。その理由は以下のデータだ。
(車の保有)
2023年の自動車の世帯保有率の調査では、77.6%で、約8割の世帯が自家用車を所有していることになる。特に地方圏の中小都市や家族形成期から成熟期の世帯は、この割合が8割を超えている。因みに、乗用車を複数台保有している世帯の割合は35.7%と報告されている。首都圏周辺や地方の小都市、家族成熟期の世帯で特に高い傾向が見られる。
(通勤通学の利用)
国勢調査によれば、通勤・通学者の46.5%が自家用車を利用している。 地方部では自家用車の利用率が高く、例えば山形県では77.6%、富山県では77.4%だ。一方、都市部では公共交通機関の利用が主流で、東京都では自家用車の利用率が9.4%と低く、鉄道・電車の利用率が44.5%と高い。
(高齢化の移動手段)
60歳以上の高齢者の外出手段として、「自分で運転する自動車」が56.6%と以前と多く、次いで「徒歩」が56.4%となっている。日本は、特に地方部や特定の年齢層において、自動車への依存度が高いのだ。都市部では公共交通機関の利用が主流であるが、日本を代表する地方と高齢者の自動車に依存する生活が現実なのだ。
(少し突っ込んで車の保有について)
日本の自動車の世帯保有率は、地域によって大きく違う。特に、東京都とそれ以外の地域、さらに東京都内でも23区内とそれ以外の地域で顕著な差がある。
2023年度の日本の乗用車世帯保有率は約77.6%だが、東京都全体の乗用車世帯保有率は34.7%と、全国平均を大きく下回る。東京都23区内では、乗用車の世帯保有率は約20%から40%の間で推移しており、特に都心部では20%未満の区も存在する。
東京郊外の多摩地域を考えた。具体的な数値は不明だったが、一般的に多摩地域などの郊外部では、公共交通機関の利便性が都心部ほど高くないため、乗用車の保有率が23区内よりも高い傾向があると考えられる。
東京都心部は地下鉄やバスなどの公共交通機関が非常に発達しており、日常生活で車を必要としないケースが多い。ただし、車を考えた場合、都心部では駐車場の確保が難しい。費用も高額で、車の所有を控える傾向も考えられる。結果的に、都市部では徒歩や自転車で移動できる範囲が広く、車を持たなくても生活に不便を感じない人が多いのだろう。
まとめると、東京都内、特に23区内では自動車の世帯保有率が低く、地方や郊外部では高い傾向が見られるのだ。
世帯あたりの保有台数も深堀りしてみる。地域によって大きく異なるからだ。2023年3月末時点で、日本全体の世帯当たり自家用乗用車保有台数は1.025台だ。
同時点で、東京都の世帯当たり自家用乗用車保有台数は0.416台と、全国平均を大きく下回る。ちなみに、最も高い福井県では、1.698台だ。地方では、公共交通機関の網が都市部ほど密ではない。日常の移動手段として自動車への依存度が高いのだ。結果、1世帯あたりの自動車保有台数が高く、複数台所有している世帯も多く見られるのだ。
(嗜好性と実用性)
統計数字は、内側をみないとミスリードされる。東京都と地方では自動車の保有目的や車種選択に違いがあると考えた。具体的なデータは限られていたが、以下の点から、東京都内では自動車が嗜好品としての側面が強く、地方では生活必需品としての役割が大きいと考えた。
東京都内は、公共交通機関が非常に発達しているため、日常の移動は電車やバスで賄うことができる。車の所有は必ずしも必要ではない。趣味やレジャー、ステータスシンボルとして高級車やスポーツカーを所有するケースが多いと考えられる。地方は、公共交通機関の網が都市部ほど密ではない。通勤・通学、買い物、病院への通院など、日常生活の移動手段として自動車が不可欠だ。このため、燃費効率や維持費を重視した実用的な車種が選ばれる傾向があるのだ。
東京都内は、駐車場代が高額で、車の所有を控える要因にもなる。車を所有する場合、趣味や嗜好性を重視した高価格帯の車種が選ばれることが多いと推察する。地方は、駐車場代が比較的安価で、複数台の車を所有する世帯も珍しくない。実用性や経済性を重視し、維持費の低い軽自動車やコンパクトカーが選ばれる傾向がある。
東京都内、特に23区内の駐車場料金は、地方と比較して大幅に高い。びっくりする金額だ。月極駐車場と時間貸し駐車場(コインパーキング)の料金相場を整理した。
月極駐車場の料金相場で、東京23区特に都心3区の千代田区、中央区、港区は機械式で、月額約40,000円~60,000円、平置きで50,000円~120,000円と地方の賃貸を超える金額だ。副都心4区の渋谷区、新宿区、文京区、豊島区では、機械式の月額約35,000円~45,000円、平置きで40,000円~80,000円だ。東部7区(江東区、墨田区、台東区、荒川区、江戸川区、葛飾区、足立区)は、月額約20,000円~30,000円。西部9区(品川区、目黒区、大田区、世田谷区、杉並区、中野区、練馬区、板橋区、北区)は月額約25,000円~40,000円だ。東京都23区外の八王子市で月額約10,000円~20,000円、全国平均を見ると月額約8,288円だ。
参考までに、時間貸しを調べると、東京都23区内のコインパーキングの価格は都心部で、10分で500円の駐車場も存在する。東京都23区外および地方は、60分で200円程度の場所が多いだろう。
(支出の割合)
東京都内では公共交通機関の利用が主流で、交通費は主に定期券や乗車料金として家計支出に計上される。一方、地方では自家用車の保有が一般的で、ガソリン代や駐車場代などの自動車関連費用が家計支出の中で大きな割合を占める。これらの違いは、地域の交通インフラや生活様式の差異によるものと考えられる。
東京都内の交通費で、平均支出額は、東京都区部の2人以上の世帯における1か月の交通費は約20,000円だ。家計支出に占める割合で、東京都の勤労者世帯における「交通・通信」費は、1か月あたり34,458円だ。
地方の交通費で、平均支出額は、全国平均で、2人以上の世帯の1か月の交通費は約14,000円だ。 家計支出に占める割合で、地方は、自動車関連費用が家計支出に占める割合が高くなる傾向がある。例えば、熊本市では「自動車等関係費」が東京都よりも高いが、全体の交通費の割合は東京都よりも低い。
都市部と地方で公共交通機関の利用を比較した。東京都内では、定期券や交通機関への支出が主な交通費となる。地方では、自家用車の保有が一般的で、ガソリン代や駐車場代などの自動車関連費用が主な交通費となる。地方ではガソリン代、駐車場代、自動車保険料、メンテナンス費用など、多岐にわたる自動車関連費用が占めており、例えば、普通自動車の年間維持費は約48万円と試算されている。
当たり前だが、東京都内と地方では、移動にかかる費用が異なるのだ。東京都内では公共交通機関の利用が主流で、月々の交通費は約2万円とされてる。一方、地方では自家用車の維持費が主な交通費となり、年間約48万円、月額に換算すると約4万円だ。
可処分所得に関して、東京都は全世帯平均で全国3位と高い水準にある。しかし生活費(特に家賃や食費)が高いため、実際に自由に使えるお金は他の地域と比べて少ない可能性がある。 一方、地方では可処分所得は東京都より低いものの、生活費が比較的安いため、移動費用に占める割合が高くなる傾向があるのだ。
従い、可処分所得が同程度であれば、地方の方が移動にかかるコストの割合が高くなると考えられる。また、東京都内の可処分所得が高いとしても、生活費の高さを考慮すると、移動費用に割ける余裕は必ずしも大きくない可能性も考えられる。
(その他)
– 免許の返納率を見ると東京23区は、高齢者の免許返納率が全国平均の約2倍で、一方地方は返納率が低いのだ。免許返納をすることでの生活困難を示している。
– 若者の車離れについても都市部と地方でのギャップがある。18歳から29歳の運転免許保有率(22年)は全国平均で80%だ。1990年代は90%以上だったので、減少傾向は否めない。しかし、同じ数字でも東京都は60%で地方は以前90%以上が免許を取得している。
(まとめ)
日本において、地方は依然として車社会なのだ。一方で、公共交通機関での生活が可能な東京や大阪の一部都市圏では車社会ではなくなっている。若者の車離れも同様で、都市部のみの現象なのだ。更に、高齢者で地方は依然として車依存が高いのだ。
新規事業の旅 学びの意味
2025年2月12日
早嶋です。3800文字です。
(デジタル化の弊害)
「答えだけを得る」ことは、デジタル化最大の弊害かもしれない。情報(或いは答えと思っているモノ)が瞬時に取得できることは便利だが、デジタルでは、それを得るためのプロセスに伴う思考や試行錯誤、葛藤や経験が省略される。既に、そのような経験を持つ人が活用するのは良いのかも知れないが、何もない人が活用すると、それは知識の深みや洞察の機会を経験させないことを意味するかもしれない。
アナログの学びは、答えを見つけるまでの過程に価値があった。問いを立て、試し、失敗しながら学びを積み重ねる中で、自らの考えを変え、視点を広げる機会があった。時間をかけて身につけた知識や技術は、単なる情報ではなく「経験知」となり、個人の成長や創造性を支えていた。
デジタル化によって、そうした「プロセスの省略」が加速した。例えば、検索エンジンを使えば、あらゆる問題の「答え」がすぐに出てくる。それを正しいと信じ、深く考えることなく受け入れると、自分なりの思考や視点を持つ機会を失う。さらに、アルゴリズムによってパーソナライズされた情報ばかりに触れると、異なる考え方の存在すら知らずにいるかも知れない。結果的に、思考の幅が狭まるのだ。
この結果、知識の表層的な蓄積は進むが、創造力や応用力、批判的思考力が育ちにくくなる。デジタル化が進めば、極端な話、すべての人が同じ答えにたどり着くため、社会全体の多様性や独自性が失われ、画一的な価値観に支配されるリスクが高まるかも知れないのだ。
デジタル化の恩恵を受けながらも、思考の過程を大切にするためには、「答えを得ること」よりも「問いを立てること」に重点を置く姿勢が重要だと言われる。瞬時に得られる答えに満足するのではなく、なぜそうなのか、他にどんな可能性があるのかと「問い続ける」ことで、知の深化を図るべきなのだ。デジタルが急速に進む昨今、その可能性ある弊害にどう向き合うかは、今後の教育や社会のあり方にも大きく関わるテーマであり、考え続ける価値がある問題だ。
(幼少期のアナログ的学び)
小学校や中学校で学ぶ科目の中で、実は最も大切なのは、先生の話(特に逸脱した話)や道徳、そして今では地域学習などの教養といった「思考の枠組み」を広げるものではないだろうか。
知識は単なる情報ではなく、それをどう捉え、どう活用するかによって価値が変わる。特に、先生の話や道徳の授業は、単なる暗記科目とは異なり、経験を通じた教訓や人生の指針を提供し、子どもたちが「ものの見方」を学ぶ場になる。これは部活動や地域での習い事も該当する。それぞれに経験を積んだ先生や指導者が、練習や試合の合間に、その当人の言葉で、当人が感じたことを言葉にして、子どもたちにつ伝える。子どもたちは、その度に見識を広げ、自分が体験したことを言語化するトレーニングにもなる。
その知識や視点はとても役にたつ。例えば、何か問題に直面して思考が停止したとき、人の話を聞いて自分の状況に当てはめることで、新たな視点を得られることがあるからだ。学習の真骨頂は、「知識の獲得」だけではない。得た知識を現在発生している問題に活用することで、自分の捉え方や考えを変え、いち早く行動して試すことにある。その意味で「知識の活用」によって思考のバージョンアップが起こり続けるのだ。
こうしたプロセスを考えると、教育の本質は「答えを教えること」ではなく、「考え方を育てること」にある。数学や理科、社会といった科目単体も重要だ。しかし、総じてそれらのエッセンスや知識が、何らかの問題解決のヒントやエッセンスになり、総合的に「思考力の向上」を実現するのだ。
更に、地域学習のような教養科目も重要だ。自分が暮らす社会や歴史、文化を知ることで、物事を多角的に見る力が育まれるのだ。何も無いと信じていた、或いは無意識に自問していたエリアの歴史を100年単位で遡ると、どのようなエリアにでも何らかの歴史や史実がある。この気付きは大きくて、何らかの価値を見出す際のヒントになる。結果的に、自分の価値観を相対化し、他者との違いを理解することにつながったりすると思うのだ。
知識を得ることは大切だ。それ自体が思考を深めるための栄養素のようなものだからだ。しかし、その知識をどう使うか、どう考えるかはもっと重要だ。そのために、学校教育においては「知識の伝達」に加えて、「思考の訓練」に力を入れるべきなのだ。むしろ「知識の伝達」はデジタルを活用して、その先の「思考の訓練」に時間と工数と予算をたっぷりつかい、試行錯誤を繰り返す事が学びの蓄積になる。
先生の話や様々な人の生きた話を聴くことが、従い重要になるのだ。様々な人の経験談を教材にすることで、多様な価値観を知ることができる。人の話を聴くことで、思考の枠組みを広げ、深く考える機会ができる。これを繰り返す過程で、自分の思考の整理のあり方を理解するのだ。自分の経験だけでは気が付かないことを知識から学ぶことで困難を乗り越えるヒントを得ることもある。思考がアップデートされることに気がつくだろう。更に、昨今の教育で重要視される地域学習は、自分がそもそも社会の一部であることを理解する大切なきっかけであり、社会とのつながりを意識する重要な経験なのだ。
(目的なき教育競争)
小学校から塾に通い、中学受験をする目的が「大学受験を楽にするため」だとすれば、その過程で本質的な学びの意義を見失う可能性が高い。学びが目的ではなく、単なる「競争に勝つためのツール」が学習と捉えると、その人の人生の後半は悲惨だ。幼い段階の早い時期に、エスカレーター式の入学チケットを入手することで、「ゴール」が見えてしまっていると勘違いを起こすと、腑抜けになり、「問い」を持つことすらしなくなるのだ。
対照的に、幼少期に、スポーツや芸術、探求活動に没頭することは、自分なりの信念や哲学を持つ経験になる。さらに、体と頭をリンクして行動することで、考えた問を検証する経験にもつながる。これは単なる知識の習得ではなく、自ら問いを立て、試行錯誤しながら答えを見出すプロセスそのものになる。社会に出て困難にぶち当たった際の、「生きる力」にもリンクすると思う。
しかし、現実を見渡すと、幼少期の習い事は、親のエゴであり、習わせている感覚を購入しているだけの部分もある。そして習い事そのものが、子どもにとっても「逃げ」の道具と化しているケースを観察する。
例えば、
– 受験勉強を理由に、自分の本当に考えなければならないことから目をそらす
– スポーツや部活を言い訳に、学問的な思考を避ける
– 大学進学は周りが行くものとし挑戦し、当人の目的はなくなんとなく時間を過ごす
こうした状態では、「学ぶ意欲」は生まれない。本来、学びとは「自分の問いを深める」ためのものであり、すでに与えられた正解をなぞるだけでは、知識は定着しても、思考は育たないのだ。10代後半に、様々な知識に触れ、様々な人の経験に触れ、その都度自分で考え試し行動する。この繰り返しの中で、自分の考えやあり方を実験する時間を過ごした場合は別だが。目的が大学に楽に行くことと誤った定義を親に刷り込まれてしまうと、運良くエスカレーターに乗っても、時間を持て余し単に消費する生活が始まり、思考の糧や生きるチカラのプラスにはならないのだ。
学びは、自分の人生を豊かにする。知識や経験があることで、ものの見方や捉え方が変わるからだ。学ぶことで何かが楽しくなり、人生が豊かになると思うのだ。
その意味で学びに必要なことは、
– 問いを持つこと、自分がなぜ学ぶのかを考え、問いを立てる習慣を持つこと。
– 経験と結びつけること、知識だけでなく、スポーツや芸術、仕事を通じて考えを深めること。
– 行動し、検証すること、単に知るだけでなく、それを実践し、試行錯誤を重ねること。
– 目的意識を持つこと、学びの目的が「大学に行くため」ではなく、「より良く生きるため」と捉えること。
かも知れない。学びの目的は、受験のためでも、良い会社に入ることでもない。自分の世界観を広げ、よりよく生きるための探求だ。だから、学校教育だけでなく、スポーツや芸術、あるいは社会との関わりを通じて、自分なりの哲学を持つ意味を考える時間が必要になると思うのだ。
もし、受験や塾を通じて得たものが「学ぶ楽しさ」ではなく「学ぶことの義務感」だけであれば、その先の人生で学び続けることは難しい。自ら問いを立て、その答えを模索する経験があれば、学びは一生のものになる。昭和のオジサン、オバサンたちの多くは、自分のピークを大卒か、大学入学した時期だと思っている。だから過度に学歴を気にして、30になっても40になっても過去の成功体験を全てとして生きてしまう。未来は変化している。従い、学びながら自分のアップデートすることで、よりよい楽しさが生まれている。なんて考えることをしないのだ。学びは義務ではない、自由なのだ。
大切なのは「どう学ぶか」よりも、「なぜ学ぶのか」。この問いを持てるかどうかが、受験や学校教育をただの通過点にするか、人生の糧にするかの分かれ道なのではないだろうか。
(過去の記事)
過去の「新規事業の旅」はこちらをクリックして参照ください。
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