
旧暦コラム 視察がてら季節を楽しむ
2025年4月26日
早嶋です。今回は、福岡から唐津、伊万里、有田、佐世保と視察を済ませ、外海方面に長崎に。途中の寄り道を表現しました。
唐津、伊万里を抜け、峠道を越えていく。眼下に広がる棚田は、まだ水を張る前の硬い黒い土だった。いまは旧暦でいう「穀雨」の頃。春の雨が田畑を潤し、種まきや田植えの支度を促す季節だ。これから田んぼに水が満ち、初夏へ向かう支度が静かに始まる。
この日は、ある商業施設の視察を兼ねた道中だった。日常の延長にありながら、国道沿いや住宅街など、人の暮らしに欠かせない場所だ。そんな現場をいくつか見て回る合間に、思うがままに車を止めた。
佐世保へ向かい、石岳に登る。九十九島の眺めは、春霞にやわらかく包まれていた。晴れ渡った輪郭もいいが、ぼんやりと滲む島影もまた、静かに心に染みてくる。旧暦の季語でいえば、「霞深し」とでも言いたくなる光景だった。
西海橋を渡り、外海へ。海は、穏やかだった。遠藤周作が「沈黙」で描いた、あの舞台。波も音も最小限にとどまり、ただ黙ってそこにある。そんな海だ。遠藤周作記念館にも足を運んだ。館内はさらりと見て回り、海を眺めながら著書に触れられる空間に腰を下ろす。窓の外に浮かぶのは、大角力(おおずもう)、小角力(こずもう)と呼ばれる島々。潮の香りと静かな光のなかで、言葉にならない時間がゆっくりと流れていた。
その夜は実家に泊まる。両親の顔を見て、いつものように庭に出る。これからぐんぐん伸びる草木を、少しだけ剪定する。無心でハサミを入れるうちに、心も静まっていく。西に沈む夕陽が、じんわりと肌を焼き付ける。夕暮れの光も、旧暦でいえば「春の名残」。一日一日が、確かに、夏へと歩みを進めている。
田んぼには、間もなく水が張られるだろう。棚田も、九十九島も、外海も。春から初夏への歩みを、静かに、しかし確かに進めている。
新規事業の旅173 次の時代の生存戦略
2025年4月24日
早嶋です。5200文字です。
ユヴァル・ノア・ハラリの著書、「NEXUS」を読んだ。これまでの著書、「サピエンス全史」「ホモ・デウス」「21 lessons」を私の解釈で整理した。
「NEXUS」は、情報の本質と人間のつながりを整理した内容だ。人間は、今、膨大な量と種類の「情報」に囲まれ生きている。かつて人間は、見たこと・聞いたこと・触れたことのある範囲の中で世界を理解していた。しかし、技術が進化し、AIが情報を生成する時代に突入した今、人間は自らの目で全てを確かめることも、正しさを保証することも困難な状況に陥っている。
ハラリのこれまでの著書と、今回の「NEXUS」を読んで、私なりに人間がどのようにして情報とつながり、どのようにして虚構と現実を切り分けてきたのか、そしてこれからの時代において人間はどのように情報と向き合っていくべきかを整理する。虚構を信じて発展してきた人間は、AIとともにどこへ向かうのか。そのヒントを、ハラリの「ネクサス=つながり」は紐解いている。
(情報は「事実」ではなく、「解釈」である)
人間は日々、膨大な「情報」に囲まれて生きている。しかし、その情報の本質は何かと問われると、多くの人が「事実」や「真実」と混同する。だが本来、情報とは「誰かがある出来事や状況をどう見たか」という解釈にすぎない。
たとえば、「今日、雨が降った」という一文も、それが「どれくらいの雨だったのか」「いつ、どこで」「誰にとって都合が悪かったのか」などによって、まったく違う意味を持つ。同じ出来事でも、伝える人や受け取る人の視点によって「情報の意味」は変わるのだ。
このような情報の相対性は、インターネットやSNSの登場によって加速した。個人がメディア化し、情報が個人から個人へ、瞬時に拡散されるようになり、もはや「正しいこと」よりも、「共感できること」や情報の受け手が「聞きたいこと」「知りたいこと」が求められるようになり、真実の境目が薄れていった。
たとえば、SNSでバズる投稿の多くは、専門的な正確性よりも、「ウケること」や「共感されること」に重点が置かれている。「これってあるあるだよね」「その気持ち、わかる」と感じる情報こそが拡散され、多くの人の目に触れる。そこには事実の厳密さよりも、感情の共有が根底にある。
たとえば、選挙演説でも、政策の中身より「わかりやすい言葉」や「敵をつくって味方を鼓舞する構図」が好まれる。そのような情報を拡散したほうが、同じような共感する人間に知れ渡ることを政治家が理解しているのだ。そのため、正しいかどうかではなく、納得できるか、心が動かされるか、が重視されている。
つまり、現代において情報とは、「人と人とをつなぐための道具」として機能しているのだ。「これってわかる」「自分もそう思う」という感情の共有や、仲間との共鳴を生み出すこと。それが、情報の最も大きな役割になってきた。もはや情報の正確性や真偽よりも、「どれだけ人とつながれるか」「どれだけ共感を呼べるか」が重視される時代なのだ。
(小集団から広域社会へ:理解の限界と統治の発明)
人類の歴史の大半において、私たちは小さな集団の中で暮らしてきた。顔が見える距離にいて、日々の生活や経験を共有し、誰かが話す内容は他の人も体験していた。だから、情報の内容に対して全員がある程度の共通理解を持ち、対話や合意が成立していた。
しかし、農耕の拡大、人口の増加、都市の誕生によって、集団の規模が飛躍的に大きくなると、全員がすべての事象を体験することが不可能になる。地理的に離れた場所で起きていることや、専門性の高い事象について、共有された経験を前提とした対話はできなくなったのだ。
この時、人間はある課題に直面する。「自分が理解していない情報について、どうやって意思決定に関わるのか」という問題だ。ここから、人類は統治の形を発明する。ひとつが民主主義であり、もうひとつが全体主義だ。
民主主義は、個々の自由を尊重しつつ、重要な意思決定を「話し合い=合議」によって行う。しかし、合議の前提には「合議する参加者の議題に対する一定の理解」が必要である。情報の複雑性が高まり、誰もが内容を深く理解することが難しくなると、投票や選挙の判断は「正しさ」ではなく、「印象」や「好感」「共感」でなされるようになる。
一方で、全体主義は「すべてを理解するのは無理だから、誰かに任せる」という構造だ。統治者が解釈し、決定を下す。大多数は従うだけで済む。その分、効率は良いが、統治者が誤った判断をしても、訂正する仕組みが働きにくい。
このようにして、情報を「共有できる範囲」を超えたとき、人類は「どう意思決定をするか」という課題に対し、民主主義と全体主義という対照的な仕組みを生み出したのだ。
(物語と文字:情報伝達の進化)
人間が「情報」を他者に伝える手段として、もっとも古くから行ってきたのは話すことであり、そこには「物語」があった。単に出来事を列挙するのではなく、登場人物、因果関係、感情を交えながら語られるストーリーは、聞き手の記憶に残りやすく、理解もされやすい。
たとえば、「昨日、北の谷で獣が出た」というだけでは、聞いた人がその情報をどう受け止めるかはまちまちだ。具体性も乏しく、注意喚起としては弱い。一方で、「昨日、狩りに出た仲間が北の谷で巨大な牙を持つ獣に遭遇し、あと一歩で命を落としかけた。逃げ延びたものの、恐怖で声も出せず、今も震えている」と語れば、場所・状況・感情を含めて立体的に相手に伝わる。
このように、人は「出来事そのもの」よりも「物語として語られた出来事」の方に強く反応し、情報を理解する。だからこそ、人類は太古からストーリーテリングによって情報を伝えてきたのだ。
しかし、物語には欠点もある。語る人によって内容が少しずつ変わり、やがて事実と異なるストーリーへと膨らんでいくことだ。人から人へ伝わるうちに尾ひれがつき、全く別の話になってしまうこともあるのだ。
この限界を補うために、人間は言葉を記録する手段を発明した。最初は粘土板や刻印、やがて羊皮紙、そして紙へと発展し、最終的に活版印刷が登場することで、「記録された情報」が広範囲に、そして安定して伝達されるようになった。そして、「何が書かれているか」が「誰が語ったか」よりも重視されるようになり、次第に情報の民主化が始まった。
人間は、ストーリーで伝える柔軟さと、文字で残す確実性、そして情報の公開性という三つの武器を手に入れた。それは情報の進化であり、人間の思考と社会構造を変える大きな転機となったのだ。
(解釈者の権威化と全体主義への転換)
情報が開かれると、再び過去に起きた、新たらしく古い課題に直面する。それは「情報をどう解釈するか」だ。同じ文章を読んでも、解釈は人によって異なる。そこで人々は、情報の意味を「教えてくれる」存在を求めた。宗教のラビ、政治思想のイデオローグ、企業のカリスマ経営者など、「解釈者」が生まれた。現在は、文章を理解出来なくても音声や動画では理解できる人が多く、紙媒体はデジタル媒体になり動画や音声での理解が一定の割合で加速する。
しかしやはり、情報そのものよりも、「誰が語ったか」が重視されはじめるのだ。こうして特定の人間に対して「正しい解釈者」とされる人物が現れ、情報の解釈に関する疑問は排除される。しかし、その解釈が正しいかどうかは重要ではない。そのため、仮に解釈が誤っていても訂正そのものがされない状態が続くのだ。
結果として、情報の民主化が進んだ先で、解釈の独占と支配、しいては全体主義が生まれやすくなるのだ。ただし、すべてがそうなったわけではない。情報を開いたまま多様な解釈を認める、民主主義的な社会も当然に残る。そこでは、議論と訂正が可能であり、変化を受け入れる柔軟性がある。この両者の違いは、情報や判断に対して修正できる構造かどうかにある。
ただ、人間は自ら問いを立て疑問をもつよりも、受け身になって自分が信じる解釈社の言う事を聴いていたほうが楽なことを知っている。そのため、全体主義的な状況に身を置く人間が増え、民主化で互いに議論と訂正をする行動をとる人間がマイノリティになるのだ。
そしてAIが登場する。何が正しいか、誤っているかが不明瞭な時代のAIの登場は痺れるくらい危険もはらむのだ。
(AIと情報の氾濫:判断不能の時代へ)
「正しさとは何か?」という問いに対して、人間は長い間、経験や対話によって答えを模索してきた。一方で、多くの人間はその問いすら考えることもなく過ごしていた。しかし、いよいよ、その問いを考え続けた人間にとっても、根本的に構造が変わる時がきたのだ。
SNSの普及によって、人は「正しい情報」ではなく、「誰とつながれるか」を重視するようになった。情報の内容は重要ではなく、「それ」によって得られる共感や仲間意識が優先されるのだ。そのような環境では、たとえフェイクニュースであっても、信じたい物語に近ければ簡単に受け入れてしまう。或いは、既に多くの人間はフェイクかリアルかの意識を持たないまま、感情や自分が属する場、つまり所属によって関係構築をする道具そのものが情報になっているのだ。
そしてAIが加わった。AIは意図や倫理をまだ持っていない。目的の達成のために、大量の情報を瞬時に生成し発信することができる。その気になれば、発信した情報に対して、あたかも人間が対話しているように場の雰囲気を作り、その情報を活用した場を深め拡散することも可能だ。そしてその精度と速度は人間の認知能力を遥かに超えている。
結果、世界には「事実かどうか」がわからない情報が今に比較にならないほど溢れ、人々は何を信じてよいか分からなくなっていくのだ。それは情報社会の進化の行く末に、判断不能な社会の到来が始まるのだ。
(分断される人間社会:理解できる者と、流される者と)
このような情報環境では、人々の間に新たな分断が生まれる。或いは、既に生まれていたがその境が明確になる。情報を批判的に扱い、AIを理解して活用できる人々と、情報に流され、何も考えずにこれまで通り過ごす人だ。
前者の理解できる者は問い、調べ、判断し、テクノロジーを使いこなす力を持つ。他方、後者の流される者は、情報に流され、何が正しいかを考えることもしなくなる。もちろん出来ない。情報の量と複雑さに圧倒され、感情や関係性で無意識に受け入れるのだ。
この分断は、AIによる情報量の爆発に人間の処理能力が追いつかないこと、そして情報リテラシーや教育環境の格差に起因していると思う。「情報を構造的に理解し、活用できる人々」と「感情で反応し、情報に依存する人々」このような対立が生まれるのだ。そして、これが格差そのものの因果になり、社会に大きな影響力を及ぼすだろう。一部の人々はAIを駆使し、他者を支配しうる。しかし、同じ技術で救うこともできる。理解できる者のモラルは非常に重要だ。
人類は今、分断の渦中にいる。どちらに進むかは、人間の選択、それも理解できるもののモラルににかかっているのだ。
(情報とともに生きる:私たちはどこへ向かうか)
AIが無限に情報を生成し、真偽の境界が曖昧になる今、人間は情報とどう向き合えばよいのか。鍵は、「自ら問う力」だ。与えられた情報を鵜呑みにせず、その背景や意図を問い、自分にとっての意味を考えることだ。また、情報を他者と共有し、対話を重ねる姿勢も必要だ。異なる意見に耳を傾け、多様な視点と接することで、偏りから自由になれる。
AIやSNSをただ恐れるのではなく、正確な情報の見極め方と使い方を学び、つながりを育みながらも、誤った情報に流されない判断力を持つこと。それが、これからの時代の知性である。
人間は、進化の過程で「虚構を信じる力」を手にした。それこそが、他のホモ属との決定的な違いだった。神、国家、貨幣、制度。いずれも目に見えないが、人類はそれらを信じることで、大規模な協力と社会制度を築いてきた。
しかし今、その「虚構を信じる力」が新たな危機を生んでいる。AIが作り出す無限の物語と、人々の信じたい気持ちが重なり、現実との境界が曖昧になっているからだ。虚構を信じて発展してきた人間が、今度はその虚構によって崩壊しかねない状況にあるのだ。
だからこそ、これからは「虚構に耐性のある人間」が生き延びるかもしれない。目の前の現象に向き合い、検証し、問い続ける力。それこそが、次の時代の生存戦略なのかもしれない。虚構を活かすも、囚われるも、人間次第なのだ。
新規事業の旅172 青を焼くか、重ねるか。文化と技術の対話の先。
2025年4月23日
早嶋です。
パリスダコスタハヤシマの時計づくりは、ある一つの懐中時計から始まった。それは、創業者の一人、トムのもとに代々受け継がれてきたロンジン製の懐中時計。6時位置に小さなスモールセコンドを備え、美しいブルースチールの針が、静かに時間を刻んでいた。その深く落ち着いた青の輝きに、私たちは心を動かされた。この「青」を、自分たちの時計に宿したいと考えたのは、ごく自然な流れだった。
しかし、私たちの時計にはマイクロローターを採用しているという背景がある。これはムーブメントの薄さや軽さを追求した結果であり、ドレスウォッチとしての機能性を高める選択だ。一方で、青焼きに使われるスチールは、帯磁のリスクを完全には排除できない。ムーブメントの近くに磁性を持つパーツを配置することに、私たちは慎重だった。
さらに、私たちの時計では針だけでなく、インデックスやブランドロゴ、さらにはムーブメントの一部パーツに至るまで、「紺碧(こんぺき)」という色をテーマとして統一したいという意志があった。つまり、針だけが「青焼き」で他の部位と色調がズレると、時計全体の調和が失われてしまう。
こうして私たちは、青焼きのもつ美しさと歴史性に敬意を払いながらも、PVD(物理蒸着)によって青を再現するチャレンジを始めた。
だがそれは、簡単な道ではなかった。青焼きのような「深く、光の角度で表情を変える青」をPVDで再現するには、素材と膜厚、蒸着温度や下地処理のすべてを調整する必要があった。均一すぎると冷たく見え、濃すぎると黒く沈む。薄すぎればグレーになり、表情を失う。
何度も試作を繰り返し、ようやく私たちは「これだ」と思える紺碧の青にたどり着いた。それは、火によって焼かれた青とは異なるが、同じく時を重ね、深まる色だった。
この選択は、「伝統を捨てた」ことではない。むしろ、私たちが伝統と誠実に向き合ったからこそ、たどり着いた技術であり、そこに文化と技術が対話する瞬間があったと、今は思っている。
青を焼くか、重ねるか。その問いの先に、私たちは「なぜ青にこだわるのか」という答えを見出した。それは、日常にこそエレガンスを──というパリスダコスタハヤシマの哲学そのものなのだ。
ーー
To Burn or to Layer — A Dialogue Between Culture and Technology
The story of Parris DaCosta Hayashima begins with a single pocket watch.
An heirloom Longines piece, with a small seconds subdial at six o’clock and elegant heat-blued hands that had quietly measured time for generations.
We were drawn to that deep, dignified blue.
It wasn’t just color—it was a feeling. A memory of craftsmanship.
Naturally, we wanted to bring this shade into our own timepieces.
But our watches feature a micro-rotor movement, chosen for its thinness, lightness, and everyday comfort.
This design decision also made us cautious—traditional blued steel carries a risk of magnetism, which could subtly affect movement performance over time.
More than that, our vision was to express a unified tone—Konpeki blue—not just on the hands, but also on the indexes, logo, and even certain components inside the movement.
We wanted the watch to feel complete, harmonious.
But with heat-blued steel, each part would age differently, and color consistency would be hard to maintain.
We realized: traditional bluing wouldn’t serve our purpose of elegant daily wear.
That’s when we began our challenge:
Could PVD (Physical Vapor Deposition) achieve the same emotional depth as heat-bluing—without its limitations?
The answer was not immediate.
Reproducing that soft, shifting blue was anything but simple.
We tuned the substrate, adjusted vapor pressure, played with film thickness, and watched countless samples under natural light.
Too dark? It turned black.
Too pale? It lost its voice.
Too smooth? It felt lifeless.
But eventually, we arrived at something that moved us.
A blue that held depth, warmth, and subtle change.
It wasn’t fire-forged. But it felt alive.
Choosing PVD wasn’t a rejection of tradition.
It was, instead, a conversation with it.
An attempt to carry its values forward—with precision, durability, and quiet beauty for modern life.
So in the end, it’s not about burning or layering.
It’s about why we choose blue at all.
And for us, that reason is clear:
To bring a sense of elegance into the everyday.
To craft something timeless—not only in form, but in spirit.
This is the blue of Parris DaCosta Hayashima.
Rooted in history. Realized through technology.
新規事業の旅171 増加する組織再編
2025年4月21日
早嶋です。
最近、非上場を含めた中堅・大企業の中で、グループ会社を再編・統合する動きが目立つようになってきた。これは一部の業界に限った現象ではなく、製造業、建設業、物流業、食品業など、多様な業種で進んでいるように感じる。実際に、私の関与する案件の中でも、10年前にはほとんど話題に上がらなかった組織統合や会社再編が、今では年に複数件あるのが当たり前になってきた。
その背景には、いくつかの大きな構造的な理由があると思う。まず、人材不足だ。特に、管理部門やバックオフィス業務に従事する人材の確保が難しくなっている。人が足りないのであれば、各子会社で経理、人事、総務を個別に持つ意味が薄れてくる。むしろ一元管理し、スリムに運営する方が合理的なのだ。
次に、DX(デジタルトランスフォーメーション)対応の圧力がある。複数の子会社がバラバラのシステムを使っていると、IT投資は無駄が多く、データも統一できない。グループ会社を統合し、同一のERPやクラウドツールを使えば、コストも下がり、業務スピードも上がる。特に、最近のERPはグループ連結でのKPI管理やモニタリングが容易になってきているので、経営としての意思決定が加速するのだ。
資本効率という観点も大きい。100%子会社であれば、再編は比較的スムーズにいく。しかし、少数株主がいる場合には、交渉や価格評価が必要になる。資本の集中や、遊休資産の見直しを行うためには、子会社を統合してガバナンスを強化し、資本政策を見直すという流れが不可避なのだと思う。
また、最近はM&AやIPOを視野に入れている企業が増えている。グループ会社がバラバラのままでは、評価が分散してしまうし、投資家からの印象も良くない。事前に事業再編を済ませておくことで、バリュエーションが明確になり、外部資本を導入しやすくなるのだ。
一方で、組織再編は簡単ではない。100%子会社であれば、法務手続きと税務整理を進めれば良いが、マイノリティ株主がいる場合はそうはいかない。特に未上場会社では、株式価値をどう評価するかが大きな論点になる。DCF法、類似会社法、簿価純資産法などが使われるが、結局は「いくらであれば納得するのか」という実務交渉が中心になる。
実際の現場では、まず経営陣や親会社が第三者評価を取得し、交渉のたたき台をつくる。その後、少数株主に対して説明し、場合によっては買い取りオプションやExitボーナスなどを設けることで納得を引き出す。フェアネス・オピニオン(第三者の公正意見書)を取得することも増えている。
さらに、統合後のPMI(ポスト・マージャー・インテグレーション)も重要だ。人事制度、給与体系、評価制度、システム、ブランド統合が終わってからが本番である。お飾りの統合ではなく、実際に効率化やシナジーが出るように設計していなければ、従業員の不満や退職を招くだけで、逆効果になる。
一方で、再編を行う上で実務家として気をつけておきたいのは、株主間契約やExit条項の設計だ。スタートアップ投資などで使われるタグアロング(マイノリティが、親会社と同じ条件で売却に参加できる)、ドラッグアロング(親会社が合併・売却を決めた際、マイノリティも強制的に同条件で売却させることができる)条項や、プット・コール(将来の一定条件のもとで株式を売る権利(プット)または買う権利(コール)を定める契約条項)オプションをあらかじめ設定しておくことで、再編時の対立を防ぐことができる。
特に、外部ファンドやベンチャーキャピタルが株主になっている場合、合併や株式交換による価値変動に対する期待値とリスクのコントロールは最も重要な交渉項目になる。そのためには、段階的に持分を引き上げておく戦略や、持株会社化して株式の希薄化を避けるなど、複数の再編スキームを組み合わせて検討する必要がある。
つまり、グループ会社の統合は、単なる「コスト削減」の話ではなく、人材の最適化、IT資産の効率運用、資本構造の見直し、そしてガバナンス強化という、極めて戦略的な取り組みなのだと思う。目先の合理化だけではなく、数年先を見据えて、統合後の価値創出まで含めたストーリーを描けるかどうか。これが再編の成否を分けるのだと私は考えている。
旧暦コラム そうだ、明日山に行こう!
2025年4月18日
早嶋です。
今週は月曜日から鹿児島でした。昨日の夜、福岡に戻ると僅か3日の時差なのに春が近づいている気がした。鹿児島に行く前の週末の朝、筍を掘りに近くの野山へ出かけた。目立って出ている筍はなく、ようやく土から頭を出した二本を見つけたに過ぎない。あれから一週間。明日は穀雨。
たしかに今日は湿度が高く、雨が降って地面を潤すほどでもない。けれど、山の匂いが少しずつ変わってきている。あの空気の底に、土が膨らみはじめる気配がある。明日はもう一度、筍を掘りに行ってみようと思う。今度は、地面の下から一気に伸びてくる気がする。探すことなく、破竹の勢いを感じられるだろう。そういう季節の気配だ。
筍というのは、まるで生き物のようだと思う。掘る人の気配を感じているかのように、ある時はひょっこりと顔を出し、ある時は黙って地中で待っている。油断していると、一晩で手の届かない高さまで伸びてしまう。そして、最近はイノシシとの奪い合いだ。幸いなことに近くの野山は市が管理しており、住宅地の中にポツリと残された自然なので競合相手がいないのだ。それでも、「今しかない」という、あの感覚は今の季節を感じる。
春という季節は、どこか焦らせてくる。花は咲くけれど、すぐに散る。若葉は芽吹くけれど、気づけば初夏の色に変わっている。筍もそう。掘れる時はほんのわずか。しかも、良い筍ほど見つけにくい。けれど、そんな一瞬を追いかける暮らしが、なんとも贅沢だと思うようになった。
スーパーに行けば、一年中たけのこ水煮が手に入る。でも、朝の山に入り、湿った土を手でかき分けて、「あ、いた」と静かに興奮する。そのひとときが、筍をもっと美味しくしてくれるのだ。実際に美味しく変えるのは妻の腕なのだが。
新規事業の旅170 AとBのジレンマの処方箋
2025年4月18日
早嶋です。約2700文字です。
(AとBのジレンマに陥る理由)
組織において、「A=重要だが成果がすぐに出ない取り組み」と「B=目の前の成果が出る取り組み」という構造は、現実的には常に並存している。そして多くの組織において、AとBは戦略的に使い分けられることなく、結果的に両立せざるを得ない構造に陥っている。その背景と要因について、整理する(詳しくは前回のブログも参照して欲しい)。
まずは、A(長期的かつ不確実な取り組み)が機能しない理由だ。個人の能力ややる気に起因するものではなく、組織構造に根ざした問題で、次の4つに集約される。
1組織文化(風土)
失敗を許容しない文化、完璧を求めすぎる空気が、Aのような不確実な取り組みを着手困難にしている。Aに取り組むことで、結果が曖昧になることや未完成な状態を見せることが、組織内で「やっていない」「失敗している」と見なされる恐れがあるため、A自体が避けられるのだ。
2評価制度
Bのように成果が明確な業務は評価しやすく、評価制度はBを前提に設計されている。一方で、Aの取り組みは評価軸が曖昧で、途中経過やプロセスが可視化されにくいため、評価対象にならない。そのため、人は合理的にBを優先する。
3危機意識の欠如
かつてはBだけで成果を出せる時代が続いた。しかし今は、構造的な変化の中でAの重要性が高まっている。しかし、「いま変わらなくても目先は安定している」という集団的錯覚によって、Aへのシフトが遅れているのだ。
4リソース配分
人材・時間・予算などの限られたリソースは、評価されやすく成果が見えやすいBに集中しがちである。その結果、Aに取り組む余白がなくなり、たとえ志があっても動けないという状態が生まれる。
(AとBが結果的に「両立せざるを得ない構造」になるのか)
上記の4つの要因は、単独ではなく複合的に組織に作用している。そして、たとえ意識的に「Aに専念しよう」としても、日々のB(業務・対応・成果)から完全に切り離すことは困難である。
たとえば、組織の評価制度がBで構成されている限り、Bをこなさないと組織内での信用を失う状況がある。たとえば、リソース配分においてAに割り当てられるのは「余剰」や「空き時間」になりがちで、実際にAを行うリソースをどうやっても工面できない。たとえば、上司や周囲の空気がBを優先していると、Aの着手に対して罪悪感すら生まれる。上司は将来の重要性の意識はあるが、上司すらも短期的な成果でしか評価されない現実がある。
その結果、AとBは戦略的に分離されず、同じ人がAとBを兼務するという構造が常態化するのだ。Aに取り組むはずの時間も、Bに押し流される。兼務体制が前提となると、Aが進まない理由はより強化され、やがて「Aに着手できない構造そのもの」が常態化する。
(処方箋としての5つの提案)
この構造的ジレンマを打破するために、以下の5つの実践的解決策を提示する。これらはすべて「Aに時間とエネルギーをどう確保するか」を意図している。
1:Aの進捗を「見える化」し、可視的な成果として扱う
OKRやKPIをA用に設計する。途中経過や仮説の数、アウトプット数などを定量化する。そして、経過毎のレビュー頻度を設けて、「やっている感」「進んでいる感」を組織的に育てることだ。
たとえば、新規事業開発では、企画書のドラフト数、ユーザーインタビュー件数、仮説検証レポートの本数を週単位で可視化している企業がある。これにより成果が出る前の「動いている状態」が定義され、評価されやすくなる。
2:A専用の「オフサイト時間」をつくる
月に2回とか、週に1回半日とか「B業務を禁止する」時間帯を設けるのだ。Aに取組む場所も社外にするなど、非日常的な空間で思考を構造的に切り替える取組だ。
たとえば、IT企業では「イノベーションフライデー」として、毎週金曜午前を既存業務から切り離し、リサーチ・アイデア創出・外部イベント参加に使う時間として制度化している。場所もあえて本社から離れたコワーキングスペースを用いているなどがある。
3:仮の締切や発表機会を設ける
完成度に関係なく、中間レビューやラフ発表を設けることで、行動のモチベーションと緊張感を創り出すイメージだ。
たとえば、ベンチャー企業では「月1ピッチ大会」を実施し、構想段階の事業アイデアや調査進捗を社内外にプレゼンする機会を設けている。これにより、日常のB業務に埋もれがちなAを「発信前提」で進める文化が醸成されるようになる。
4:チームで進める共有型のAプロジェクト化
Aを個人任せにせず、チームで持つことによって放棄や停滞を防ぐ。他者の目があることで質も進捗も上がるだろう。
たとえば、製造業のある企業では、R&Dテーマに関して3人から5人の「構想小隊」を組み、週次でブレストとタスク分担を実施している。共有責任化により属人性が薄れ、継続性が構造的に高まっている。
5:Aに関する役割・称号を明示する
「Aリーダー」「未来企画担当」など、役割を組織内で明確に定義することで、時間と行動の根拠を持たせるのだ。
たとえば、広告業界の企業では「イノベーション推進役」という職名をあえて与え、毎週10時間を未来構想に費やすことを正式な業務として認めている。周囲の認識も変わり、Aの取り組みが「業務」として定着している。ある中堅企業ではSDGsの取り組みに対して、若手選抜メンバをトレーニングして「SDGsリーダー」という役職を与えた。業務の10%相当の時間をチームで取り組めるようにしている。
(両立の幻想を捨てる)
ここまでの議論で明らかになったのは、AとBを兼務させると、ほぼ確実にBが勝つ構造が存在するということだ。だからこそ、本来的には「分けるべき」である。しかし、分けられない現実の中では、「構造そのものを変える仕組み」が現実的だ。
もちろん、トヨタのような大企業は、資源の豊富さゆえにAとBの両立が可能になる。すなわち、資本とは時間と多面性を買う力があるのだ。中小企業やスタートアップにとっては、むしろ「今はBで堅実に、将来Aをやる」とか、「Aに賭けて一点突破する」など、戦略的選択と集中が求められる。
是非、みなさんも部下を観察しながら問うてみて欲しい。自分の組織は、「いま本当にAをやろうとしているか?」 それとも「やっているフリの中で、Bに流されているだけなのか?」AとBは呼吸のように交互に必要だ。だが、その呼吸を組織として設計できるかどうか。それが戦略の核心であり経営者の役割だと思うのだ。
新規事業の旅169 重要な取組が出来ない構造
2025年4月17日
早嶋です。2800字。
組織の中で、明らかに「重要」と認識されているのに、なかなか進まない仕事がある。たとえば、部下の育成計画、新規商品の企画、新規事業の構想や調査等だ。いずれも短期的に成果がでにくく、長期的な成果を見込む仕事である。ここでは、これをAとしよう。一方で、日々の業務やルーティン、定量目標の達成など、すぐに成果や評価に結びつく仕事は、誰もが必死にこなしている。これをBとしよう。
Aは必要だと頭ではわかっている。しかし、ついBに時間を奪われてしまう。このような構造的ジレンマを「AとBのパラドックス」として整理してみる。このパラドックスは、どんな組織にも存在しており、ますます深刻で、戦略的に重要な課題として浮上している。
(AとB、二つの仕事の本質)
まず、AとBの違いを明確にしておこう。Aは「組織の中で明らかに重要と認識されているが、なかなか進まない仕事」。Bは「日々の業務やルーティン、定量目標の達成など、すぐに成果や評価に結びつく仕事」。AとBは「どちらが重要か?」という問題ではない。どちらも重要で、どちらかだけでは組織は成り立ちにくい。
問題は、Aをやりたくてもやれない構造が組織内にあることだ。そして、その構造を自覚しないまま、組織はAを後回しにし続け、結果的に持続的な成長が難しくなっていく。
A:長期的に重要だが、すぐに成果が出ない仕事。成果が不確実/評価されにくい/習慣化しにくい。
B:目の前で重要で、すぐに成果が出る仕事。成果が明確/評価されやすい/習慣化しやすい
(Aが機能しない組織の構造的な原因)
読者の組織で、Aに相当する仕事は何があるだろうか。そして、その根本的な原因は何だろうか。20年間、さまざまな業種・業界、規模の大小の組織を観察してきて、私はその理由が大きく4つに集約されると考えている。すなわち、文化(組織風土)/評価制度/危機意識の欠如/リソース配分の失敗である。
文化(組織風土)
これは、失敗が許容されない文化や、完璧を求めすぎる空気が、結果としてAを妨げている。あるいはAの着手を、極端に高い壁のように勘違いさせる個々人や組織のマインドがある。Aは成果が不確実で、評価されにくい。前例が無いので習慣化されにくい。従い、Aに取り組んでいる場合、中途半端な取り組みや、失敗するチームのように思われるのではないかと、過度に恐れてしまう。
評価制度
Aに取り組んでいること自体が評価されない組織では、そもそも誰も動かない。Bは数字で評価しやすいが、Aはプロセスや途中経過を評価する設計が必要だ。さらに、Aは「どのような状態になれば成功か」という定義すら曖昧なままのことが多い。多くの組織が、短期成果偏重の制度に収束してしまっている。評価されない仕事であるがゆえに、誰もAに時間を割かなくなるのだ。
危機意識の欠如
そもそも、Bの仕事だけをこなしていれば、給与が安定して得られた時代があった。しかし、社会は変わった。多くの人が、Aの必要性を「なんとなく」感じている。だが、Bをやっていれば目先の未来は安定するという幻想にとらわれている。Aの必要性が高まっているにもかかわらず、組織内ではその温度感にズレがある。それがAの停滞を引き起こすのだ。
リソース配分の失敗
上記の3つの流れの結果として、人材も時間も予算も、目先の成果が見えるBに投下される。経営陣も含めて、Aに必要な「余白」の概念を理解できず、作れない構造になっている。そのため、Aの仕事にかける量も回数も期間もバラバラになり、何をやっても成果が出ないように見えてしまう。
そう、Aを妨げるのは、能力ではなく構造なのだ。
(Aだけをやる組織、Bだけをやる組織)
主力事業が成熟もしくは衰退期に差し掛かっている企業は、AとBの両立を目指すことが多い。だが、意図的にAのみ、あるいはBのみを行う組織も存在する。
Aを徹底するのは、主に起業フェーズやイノベーション企業だ。仮説を立て、未来を見据え、形のないものを信じて動く。これはとても尊い営みだと思う。だが、成功すればするほど、Aで生まれた製品やサービスがBに変わる。商品が売れるようになれば、非線形のイノベーションよりも、線形的な改善やオペレーションの効率性、そして拡張が求められるようになる。すると、組織は知らず知らずのうちに、Aの取り組みが弱まり、Bの効率と再現性に最適化されていく。
逆に、Bだけを続ける企業もある。「変わらないこと」を強みにする戦略だ。たとえば、日本の地方銀行や地場の中小企業などが該当する。さらに大きな組織でも、戦略的にBを続ける場合がある。トヨタなどはその好例で、B(ハイブリッド)を軸に据えつつも、A(Woven City、水素、電気自動車)にも継続的に投資している。
そして興味深いのは、“30年以上Bを続けてきた「日本そのもの」”だ。今、世界が変調をきたす中で、日本の存在が浮かび上がってきている。変化が美徳とされた時代に、「変わらないこと」に価値が出る局面が生まれている。グローバル化・IT化・資本主義の先鋭化を突き進んできた諸外国が混迷する中、日本のように変化を最小化してきた社会が、「安心」「秩序」「清潔」「安全」として再評価されているのだ。観光、農業、製造業、文化財など、「守り続けてきたこと」が強みに変わる、希有な例と言えるかもしれない。
(戦略提言:資源量に応じてAとBのバランスを変える)
冒頭で述べたとおり、AとBは「どちらが重要か?」ではない。両方ともに必要だ。問題は、Aをやりたくてもやれない構造を持ってしまうことだ。そして、構造がそれを許さない場合には、明確にどちらかに振り切る必要がある。
組織としてAとBを同時に追うには、それなりの資源が必要だ。トヨタは、既存の強いB(オペレーション)からキャッシュを生み出し、それを原資として未来志向のA(Woven City、水素自動車、電気自動車)に投資している。いわゆるPPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント)理論を、極めて合理的に体現している。
一方で、資源が限られた中小企業やスタートアップは、AかBのいずれかに戦略的に絞るべきだ。両方を中途半端にやれば、どちらも成果を出せず、やがて組織が疲弊してしまう。だからこそ、今はBで耐えて資本を貯めるのか、それともAに賭けて未来の市場を先取りするのか、戦略的に決断することが求められる。AとBを曖昧に共存させるのではなく、意図的に選択し、明確に言語化して組織全体で徹底することが重要なのだ。
AとBは、対立する概念ではない。呼吸のように、変化と定着、探索と深化のリズムで、組織を循環させるものだ。問題は、それを意図的に設計できているかどうか。AとBのバランス、そして「いま自分たちはどちらをやるべきなのか」という問いを、静かに組織の中で問い直す時期に来ているのだ。
新規事業の旅168 中国は金融戦争を仕掛けるか
2025年4月12日
早嶋です。950文字。
トランプ政権が発端となった米中の貿易戦争。中国には関税が直撃し、それ以外の国々には90日の猶予が与えられた。だが、同時期に起きていたのが「米国債の売り」だ。注目すべきは、日本と中国という米国債の二大保有国の動向だ。
2025年3月末時点で、米国の総債務残高は36兆ドルを超える。そのなかで日本は約1兆793億ドル、中国は約7608億ドルの米国債を保有している。中国の数字は、表向きだ。実際には第三国を経由した保有もあるため、実質保有額は1.2兆ドル程度になる可能性がある。
では、中国がこの「米国債カード」を切る可能性はあるのか。答えはイエスでもありノーでもある。当然、分からない。
たしかに中国が保有する米国債を売却すれば、米国の金利は急騰し、ドルは売られ、米経済に打撃を与える可能性がある。だが一方で、その影響は中国自身にも跳ね返る。米国債市場が混乱すれば、人民元が不安定化し、中国国内の金融秩序にも影響が出る。つまり、相互依存が前提のグローバル経済では「武器」を使えば「自傷行為」にもなりかねないのだ。
もう一つの選択肢は「通貨戦争」だ。中国は人民元のレートをコントロールできる立場にあるため、意図的に元安を進める可能性がある。これは輸出競争力を高める一方で、海外からの資本流出リスクも高まる。2015年の切り下げ局面では、実際にそのような状況が起きていた。
さらに注目すべきは、米国の制裁に対抗する形で中国がロシアやイランなどと築いている「制裁逃れの枢軸」だ。人民元や金などドル以外の通貨で貿易を行い、アメリカの経済制裁の効果を弱めようとする動きが見られる。これは金融戦争というよりも、経済秩序のパラダイムシフトになる。
結局のところ、中国が米国に対して金融的な一手を打つ可能性はある。ただし、それは常に「自国経済への影響」との天秤の上で判断される。金融戦争はボタン一つで始まるものではなく、状況を見ながら、ジワリと仕掛けられるものだ。
今後の展開次第では、米中の経済衝突は通商や軍事ではなく、金融領域で火花を散らすことになるかもしれない。そうなったとき、問われるのは各国の「通貨主権」と「金融耐性」だ。そして日本もまた、そこから無関係ではいられない。
旧暦コラム 筍(たけのこ)が育たない理由
2025年4月11日
早嶋です。
今日は4月11日。今年は筍(たけのこ)の成長があまり良くないらしい。毎月佐賀の某所で山作業をしている。この時期には筍の匂いが鼻を突くが、まだあまり出回っていないし見当たらない。実際、農家の人も、山に入る人も、「今年は少ない」「出てこない」と言っている。理由はなんだろうか。
旧暦で見ると、昔からの自然のリズムが見えてくると思う。
筍は、春の訪れとともに地中から顔を出す。この「顔を出す時期」がいつかというと、旧暦の三月、ちょうど今の4月上旬から中旬にかけてだ。旧暦では、今は三月十三日(2025年4月11日)だ。そして、昔の人は「二十四節気(にじゅうしせっき)」という自然の節目を使って季節を読んでいた。
その中に、「清明(せいめい)」と「穀雨(こくう)」という節気がある。清明は、4月4日頃。春の陽気が満ちて、すべてが清らかに明るくなる頃だ。穀雨は、4月20日頃。春の雨が穀物を潤す時期だ。このあたりの時期に、春の雨が降り、気温が上がると、地中のたけのこが一気に伸びてくるのだ。逆に言えば、雨が少なく、気温も低ければ、筍はなかなか出てこない。
今年はどうだったか。福岡も、関西も、東京も、3月下旬から4月初旬にかけて、雨が少なかった。気温も、一時的に冷え込んだ日が多かった。確かに、季節外れの雪もあった。これは、筍の成長にとってはかなり厳しい条件なのだろう。
昔の記録にも似たようなことが書いてある。江戸時代の和漢三才図会には、「たけのこは春の雨により地を破る」とある。春の雨がなければ、たけのこは地上に出てこれないのだ。つまり、今年の筍不作は、「たまたま」ではない。旧暦や二十四節気で見ると、雨と気温のバランスが悪い年には、たけのこが出にくいのは昔からの自然のリズムだったというわけだ。
いまのような「地球温暖化」や「気候の乱れ」が影響している面もあるかもしれないが、昔の人たちは、自然の微妙な変化をちゃんと見ていたんだと思う。優雅な時間の過ごし方だ。
新規事業の旅167 支援と投資のスタンス
2025年4月11日
早嶋です。1800文字です。
支援と投資のスタンス。最近は「人に張り、構造を変える事業を支援する」のが私のスタンスだと思う。
多くの起業家と出会い、事業の芽を議論して見てきた。話を聞き、行動を観察し、助言をしながら、一緒に可能性を探った案件も多々ある。その中で確信を持つようになったのは、事業の初期において一番重要なのは「何をやるか」ではなく「誰がやるか」だということ。アイデアは変わるし、市場も環境も動く。予測はずれ、困難は起きる。そのときに諦めず、もがきながらも行動を続けられるか。仲間を巻き込み、信頼を積み上げられるか。そこにすべてがかかっている、と思っている。
だから私はまず、「なぜその事業を始めたのか?」「この事業で何を実現したいのか?」という二つの質問をする。単に思いついたからではなく、原体験や問題意識があるか。その人にとって、どれだけ「どうしてもやりたいこと」なのか。それがあるかどうかで、困難を乗り越える粘りも、仲間を惹きつける磁力も全然違う。
ただ、想いだけでは投資も支援もできない。「誰の、どんな痛みを解決するのか?どんな喜びを生み出すのか?」「その市場はどれくらい広がるのか?」そういった構造的な問いにも、私は必ず向き合う。自分の時間を費やしたり、少額であっても資本を入れる以上、スケールの見込みがなければ意味がない。リターンが見えないなら、それは自己資本でやった方が幸せになれることもある。だから、良い事業でも、現時点で小さすぎる市場であれば、私は率直に「今は違う」と伝える。
一方で、最近は海外で既に成立している事業モデルが、日本では規制のせいで導入できないというケースに多く出くわす。戦後、日本がまだ脆弱だった時代につくられた制度が、今もそのまま残っている。当時は必要だったかもしれないが、今となっては小さな企業の挑戦を妨げ、大企業が利益を独占しやすい構造になっている。本来、国家がすべきことは、良質なサービスを誰もが手の届く価格で受けられる環境をつくることだと思う。だからこそ、私はそうした「構造の歪み」に風穴を開けようとする起業家を支援し応援したいと思っている。まだ日本では通用しないかもしれない。けれど、彼らの行動が将来の当たり前になると信じている。
もし今はタイミングでないとしても、「この人はいつか何かをやる」と思えたら、僕は連絡を絶やさない。時に人を紹介し、機会をつくり、細くても繋がりを持ち続ける。そして彼らがピボットして、市場が広がり、制度が変わったりしたタイミングがきたら、再びゼロベースで検討する。それでも他の投資家や支援する人に先を越されれば、自分の目が甘かった、判断が遅かったということだ。悔しさは残るが、それを糧にし、次の出会いを探しに行く。それでいいと思っている。
私は「人に張る」。そして「構造を変える力」に張る。その両方が重なったとき、私は迷わず動く。そういう支援や投資をしていきたいと思っている。
(自分の中のフレームワーク)
【支援の有無や資本を出すための3条件】
1.強い大義と原体験がある(意志)
2.解決する課題が明確で深い(ペイン or ゲイン)
3.スケーラブルな市場が存在する(リターンの見込み)
3つが揃って初めて、「外部資本の意味がある」。揃わなければ、事業として素晴らしくても、自己完結型で行くのが誠実な道だ。
【支援と投資スタンス】
1.事業より人に張る。でも「人の想い」が「スケーラブルな構造」に乗ってこそ、投資は成立する。
2.見送りは関係の終わりではない。その人の可能性を信じ続けるからこそ、支援し、観察し、再検討もする。
3.うまくいかなかったら、自分の目を磨く。執着せず、悔しさは肥やしにする。
【張るスタンス】
1. 「人に張る」:想い・覚悟・継続力を見抜く
•「なぜそれをやるのか?」「何を実現したいのか?」を問うことで、事業の背骨を確認
•一時的な困難でも諦めず、行動し続ける執念と誠実さがあるかを重視
2. 「社会に張る」:規制や構造の歪みを突く意思を評価
•古い制度が成長を阻んでいる分野で、「それでもやる」と決めた事業家にこそ希望を見る
•特に海外で証明されたモデルを日本に導入する文脈では、制度改革の起点になる可能性がある
3. 「合理的に張る」:市場性・スケール・再現性も見る
•課題の深さと対象者の数、市場の大きさを冷静に評価
•外部資本を使うなら、リターンの合理性がなければ意味がない
•市場が小さいなら、自己資本でやる方が幸せになれることも伝える
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